« previous | メイン | next »

March 23, 2004

『ペイチェック/消された記憶』ジョン・ウー

[ cinema , sports ]

「未来へ行くことは無理だが、未来を見ることは可能だ。」ベン・アフレックの自信に溢れた言葉に、思わず頷きそうになる。私たちはすでに、もう何度も未来を見ているのだから。暗闇の中で、未来は大きな白い布の中に映し出される。(実際には過去(現在)の映像であるとしても)私たちは簡単に未来を目にし、時間の移動を目撃する。椅子にどっかりと腰を据えたままで。
『マイノリティ・リポート』で、未来を見つめるトム・クルーズが画面の前でただ手を動かすだけであったように、未来の映像は動かない身体の前に与えられる。それはスクリーンを前にした観客の姿と何も変わらない。目の前に提示された映像を見つめてさえいれば、時間は順調に過ぎ去っていく。しかし、一旦未来を見てしまった者は、その後激しい身体運動を余儀無くされる。逃亡のため、そして未来を変えるために、彼らは逃げ回り自ら戦うはめになる。
記憶を失ったベン・アフレックを助けるのは、過去の自分が残した20のアイテムと、潜在的に残された記憶の断片である。一見がらくたにしか見えないアイテムがそうであるように、徐々に頭に浮かび上がる記憶の一部は、それだけでは何の役にも立たない。過去の記憶、正確には、過去の自分が見た未来の記憶は、現実に起こってしまったときに初めてそれが何であるかが判明する。今自分が見ているものと、頭の中に浮かびあがる映像とを比較することで、現在が少しずつ更新されていく。どんな映像を目撃していても、未来を知っていたとしても、戦うこと=運動は現在でしか起こらないのだ。
見るという行為はけっして簡単なことではない。いや、簡単に為し得てしまうからこそ、大きな代償が必要となる。タイムマシーンならば、未来から現在、そして過去への移動が取りあえずは明確に分類される。そこでは、未来を見るということは、時間の移動という運動を体験した結果なのだから。未来を映像として見てしまった者は、現在から未来への移動を、自らの身体を使って体現し直さなければいけない。
スクリーンの前に座りこんだ私もまた、何らかのアクションを起こさなければいけないだろうか?恐らくその必要はないだろう。思わず目を背けてしまう光景も、夢中で見入ってしまう光景もここにはない。私が見たものは未来ではないのだ。

月永理絵