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August 5, 2004

アジアカップ準決勝 日本対バーレーン

[ cinema , sports ]

このゲームも延長戦に入り、玉田のシュートで逃げ切り、PK戦を免れた。中国で行われているアジアカップでは主審のゲームメイクが悪い。遠藤の一発レッドも然り。笛を吹きすぎる。自らの存在感を誇示したいのはこのカップ戦の開催国だけですでに辟易している。スポーツと政治はちがうなどとウブなことは言わない。スポーツだって政治だ。だが、この開催地の観客を見ていると、ボーダレスな情報社会の進展から、この開催地が取り残され、アジアカップの開催も4年後のオリンピック開催も「国威高揚」という、僕たちの間では、ずっと以前に死語になった言葉の意味内容のため以外のなにものでもないようだ。
もちろんアジアカップは国民国家を背景にした国名をそのチーム名としている大会だが、すでに何度も何度も書いているように、もうかつてのような国家は存在せず、ナショナルチームなんてものは、短期間にだけでっち上げられたもので、そこにアイデンティティなどはいらない。中東のフットボールがカウンター一本で、韓国や中国はフィジカルが強いといった戯言は今、通用しない。どのチームもしっかい中盤を作り、どのチームもサイド攻撃に活路を見いだす。ジーコをはじめ多くの「外国人」監督がそれぞれのチームを指揮している。開催国だって例外ではない。これも何度も書くがたまたま同じパスポートを持ったフットボーラーたちが短期間共にチームと作り、そのパスポートの名前をチーム名にしているだけだ。アレックスのように(あるいはデコのように)パスポートの名前の変更も可だ。ラグビーのW杯なんてもっと徹底していて、パスポートの名前を変えなくても、その協会の中で一定期間プレーしていれば、その地域のナショナルチームのメンバーになれるのだ。こうしたナショナルチームの形骸化──あるいはクレオール化は、これからも加速していくはずだ。つまり、こうしたスポーツにおいて、ぼくらがリアリティを感じるのは、そのチーム名の由来になった国家の名前ではなく、今そこにあるゲームと今そこあるプレーでしかない。
ゲームに戻ろう。詰まらぬ議論に割く時間はない。相変わらず日本はゲームの入り方が悪い。アレックスのサイドが破られて、中央のマークがずれ、1点食らう。ゲームはそれからやっと落ち着く。ゲーム開始からガツガツくるのが分かっているのだから、それをいなして大人のゲームができないのか。そして遠藤の一発レッド。ジーコは、4バックにし、中田浩二と小笠原を投入し、ひとり欠けた中盤のピースを運動量で補おうとする。この選択は正しいが、アレックスと加地は4バックの両翼は務まらない。事実、中田浩二のヘッドと玉田の左足で2-1とゲームをひっくり返してからも加地のサイドに起点を作られて1点、アレックスがマークを離し、宮本が引き出されて1点食らい、絶好調の中沢のダイヴィングヘッドが決まらなければすでに帰国していたはずだ。3-4-1-2から4-3-2へのフォーメーションの変化に左右両翼が対応できていない。それが失点の原因だ。アレックスは、アジアレヴェルでそのアタックは通用するが、頭の悪さは直らないだろう。三浦を入れて落ち着いたゲームを演出できないのか。2-1でゲームを終えることができない。玉田のスーパーゴールが決まったら、左右のどちらかが上がるだけで、バランスをとることだけに集中すればゲームは終わりに近づいていく。カウンター狙いにしてスペースを埋めることに気を配ればいい。もっとずっと楽に勝てたはずだ。
中国対イランを見ると、中国の両サイドはかなり強い。彼らに力を発揮させないフォーメーション──つまり3ボランチ──もあるが、ジーコは、ここまで来たら、出場停止の遠藤を中田浩二に代えるだけだろう。しかし鈴木隆行がこれまで通り、ポストになるには中国のディフェンダーは大きすぎるようにも思う。

梅本洋一