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August 8, 2004

『グラスホッパー』伊坂幸太郎

[ book , cinema ]

grass.jpg幻想と現実との境目が消えていく。小説でも、映画でもよくある話だし、特に目新しい材料も見つからない。どうせ現実の中の幻想が侵食し始め、最後にはすべてが幻想だったというオチがつくのだろうと思っていると、どうも様子が違っている。話の随所で思わせぶりな展開を見せられ苛つきもするが、どこか潔い。
鯨という“自殺屋”には、自分が自殺させた者たちの亡霊が見えるらしい。気になるのは、亡霊の姿が現れるとき、生きている者たちの姿がまるっきり見えなくなってしまうことだ。幻想か現実か見ればわからないか、と聞かれ、わかるわけがない、と言い返すように、二つを混同するから戸惑うのではなく、それぞれが全く同じ形態で独立して現れるから途方に暮れるのだ。単純な話、選択肢を与えられるから迷うだけで、どちらを選ぶかはどうでもいい。どちらか一方にしてくれ、と叫びたくなる。亡霊の輪郭がこんなにもはっきりとしているのはおかしい、亡霊ってのは曖昧模糊な存在じゃないのか、と鯨は考える。現実と幻想との違いは何か?幽霊にだって触れるかもしれないと考えるように、幻想の生態について疑問を感じ始める。が、実際に触れたりはしない。“自殺屋”は人に触れる必要はないからだ。鯨が目の前に立つだけで人は勝手に死んでいく。だから見えているだけで十分なのだ。誰かがそこにいた証拠なんてない。私は見た、ということだけが事件を進展させていく。
偶然の目撃が運命を変えてしまう。これもよくある話。(殺しの?)業界を担う男が、車に轢き殺される。誰かが背中を押したらしい。ここで二人の目撃者が登場する。道路の正面から見ていた鈴木と、ホテルの部屋から見下ろしていた鯨。目撃者たちは押した瞬間を見たのではなく、去っていく男の姿を見たのだった。押し屋を尾行し居場所をつきとめた鈴木は、ただの目撃者から当事者の家族となろうとし、結局は目撃者でさえなかったことに気付く。自分は何も見ていなかった、観客ではなかったと途方に暮れる。同じ目撃者である鯨は、見たか見なかったかなど気にもしない。とにかく目の前にある者を清算していくのだ。そう、自分自身さえも。
電車の通過をじっと見守るうちに、これが通りすぎたら何かが変わるかもしれないと思う。車を走らせる疾走感はなく、走り去る電車を眺めるだけだ。一気に読み終えると、そこには何も残らないし、何が起こったのかも忘れてしまう。それでも、“殺し屋”の蝉が見せた殺しのテクニックが素晴らしかったことは確かだ。とりあえず、その場面だけは見たような気がする。

月永理絵