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August 16, 2004

『68年の女を探して−−私説・日本映画の60年代』阿部嘉昭

[ book , sports ]

kasyo.jpg阿部嘉昭は何かに囚われている。彼の文章を読んでいると、そう思う。おそらく彼自身もそのことに自覚的だろう。彼はそれから必死に逃げようともがいているように見える。
本書は、『精解サブカルチャー講義』『実践サブカルチャー講義』と同じように、立教大学で行われた彼の講義の草稿である。60年代から70年代の日本映画を扱ったこの講義において、彼自身の言葉を借りれば、阿部嘉昭はすが秀美の『革命的な、あまりに革命的な』を反面教師として、そこでは考察が怠われていた「女性性」を主題としている。「日本映画史において、「68年の女」がどのように出現を準備し、時代のなかでどのように中心化され、やがてはどのように退場していったのか」。たとえば若尾文子や藤純子など何人かの女優を通して、「68年の女」を定義し、それを論じていくことがここでの作業になっている。
300ページを超える結構な分量の本書を通読して即座に浮かぶ「つまらない」という感想はどこから来るのだろう? 阿部嘉昭によれば、そもそも定義不可能な存在が「68年の女」であって、つまり「68年の女」を定義し、それを論じようとしても、つねにそこからはこぼれ落ちてしまうものが「68年の女」だから、はじめから負けの決まった戦いを彼はここであえて選択しているが、その結末の見えている物語がつまらないのではなく、そこで彼のとるスタイル、その方法そのものに興味が持てないのだと思う。
阿部嘉昭は何かを論じるときに、自分の持っている知識、情報をくまなく張り巡らせてそこに引っかかったものすべてに言及するようなスタイルをとっているように思う。たとえて言えば、積極的な蜘蛛のようだ。蜘蛛の巣を張り巡らせて、獲物を待つのではなく、むしろ自分から獲物を捕らえに行く蜘蛛の巣をつくる。映画を論じるにあたって、具体的に画面に映っていたものの話しかしていないと彼は何度も繰り返すが、出発点が仮にそうだったとしても、そこからいろいろな問題へと派生させていく彼のスタイルは、画面に映っていたものはいつしか見失われ、最終的に彼の思考、想像の産物へと変貌していってしまう。阿部嘉昭は自分で仕掛けた知識、情報という蜘蛛の巣に自ら囚われてしまっているのではないか。
蜘蛛の糸はそんなに強くないはずだ。ちょっとでも重いものが来れば、すぐに切れてしまうだろう。しかし、一端囚われると、もがけばもがくほど離れられない粘着性がある。なお、「あとがき」にあるように、「この講義の熱気は「阿部嘉昭ファンサイト」に転載された立教生の期末レポートに反映されている」らしい。興味のあるかたは、そちらのウェブサイトも参照されたい。

須藤健太郎