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February 13, 2005

『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』青山真治

[ cinema , cinema ]

あれは1980年晩秋のパリのオデオン座のことだった。イングマール・ベルイマン演出のシェイクスピアの『十二夜』を見た。もちろん日本の新劇でも小劇場でも、そしてロイヤル・シェイクスピア・カンパニーでも僕もこの戯曲の多様な舞台を見た。でも、今でもベルイマンの『十二夜』が最高だったと思う。ベケット以降、演劇は「以後」を生き延びなければならない。つまり、物語と存在を徹底して縮減した極北の演劇──ドゥルーズは「消尽」と呼んだ──以降、舞台にはいかなる物語も不可能となる。少しでも演劇の歴史に通じた者なら、「いま、ここで」舞台を作るために出発点となるのは、そうした諦念であることは述べるまでもないだろう──だから私は、物語の過剰生産こそが徴となっている現在の日本の演劇状況に否定的だ──が、そこから始まる古典の読解=演出時代にあって、シェイクスピアはもっとも大きな対象になった。時には衣裳を現代風にし、時には日本の戦国時代とシェイクスピアの歴史劇を重層させ──映画でも黒澤明の多くの作品がそれに当たるだろう──、シェイクスピアは演劇「以後」の演劇の中心であり続けた。多くの演出家たちがシェイクスピアの作品から、眠っていた「意味」を読みとり、それを造形=舞台化しようとしていた。だが、ベルイマンは、まったくそれとは正反対の方法でシェイクピアに挑んだのだった。
北欧の冬、ある村の旅籠に、旅回りの劇団がやってくる。一夜の芝居をやるためだ。酔客を相手に演じるのは『十二夜』。旅籠の狭いホールには窓がひとつあり、そこから西に傾いた太陽の光が差し込んでいる。イングリッド・チューリン、ハリエット・アンデルソンといったベルイマン映画でなじみの女優たちやスウェーデン王立劇場の男優陣が、それこそ淡々とまるで室内楽のように『十二夜』を演じ、この結婚喜劇の幕が閉じられる。だが、私たちは、心に静かな感動を抱きつつ、まだ、この旅籠のホールを去るわけにはいかない。酔客の二人が酒瓶をもって、舞台の中央に出て、また酒盛りを始める。照明が少し落とされ、次第に舞台が暗くなるにつれ、二人の酔客は酔いつぶれてそのまま眠りについてしまう。暗転。ふたたび淡い照明が、たったひとつの窓に当てられる。『十二夜』が始まったころ、西に傾いていた日の光はすっかりなくなり、暗い窓の外にはしんしんと雪が降っている。それを見届けた私たちは、オデオン座の席をゆっくりと立った。もちろん私は、この「淡々とした」『十二夜』に感動したが、同時に、「以後」の演劇を生きるベルイマンの演出に驚嘆していた。彼は、シェイクスピアに何も足さず何も引かない。『十二夜』を無傷のまま、そこに置き、その両側に、今の時間の推移を静かに示すだけだ。終わりを、雪を、言葉もなく提示するだけだ。
青山真治は、「終わり」から「再生」までの時間帯を常に作品の中で提示している。極めて政治性の強い物語を背後に置いた『Helpless』、「終わり」から「再生」までの途方もない時間を二台のバスの間で震動させた『ユリイカ』、家族の「終わり」と「再生」を追った『月の砂漠』……。彼は常に「以後」の世界の推移をそのフィルムの中で追っていた。
そして『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』でもまたその「以後」を追っている。その意味で、このフィルムもまた、青山真治という映画作家の「作家性」が極めて濃厚なフィルムだということができるだろう。
2015年、患うと自殺へと患者を赴かせる「レミング病」の伝染の中に人々はいる。文字どおり「以後」の世界だ。すでに何百万という数の患者=自殺者が世界に出現している。私たちは、この伝染病が横溢する北の果てのある場所にいる。晩秋の太平洋の波が砂浜を洗い、砂埃を運ぶ強風が吹き抜けている。そこにいるふたりのミュージシャンの許へ、都会のブルジョワ男が探偵と「レミング病」に感染した孫娘を伴って訪れる。彼らの音楽がとりあえずの自殺願望を押さえる効果があることを伝え聞いたからだ。地の果てのようなこの場所、波と風ばかりが音響を形成するこの場所で、その世界──「レミング病」の蔓延する世界──に拮抗するかのようなふたりの音楽。もちろん、アラン・ドワンの『Most Dangerous Man Alive』からティム・バートンの『マーズ・アタック』までのフィルムが、『エリエリ』の背後にあることは言うまでもないし、だからこそ『エリエリ』は「以後」の映画なのだと断言してもよいのだが、それと同時に、この世界の音響と拮抗するような音響──かつて武満徹は、沈黙と計りあえるような音、を生むのが作曲だと言ったが──を生むことこそ、病に拮抗する術なのだというフィルムの物語は、そのまま現在の映画が立ち至った状況と重ね合わせられるだろう。動いていき、流れていく時間と空間の中にありながら、それを少しの間、停止させるような「幻覚」を与えつつも、それは「幻覚」に過ぎず、やはり時刻は容赦なく刻まれていくからだ。
演劇に比べるとまだ若々しい映画もまた、『エリエリ』によって、決定的に「以後」の時代を生きることを要請されている。「以後」の世界にあって、その世界とどう拮抗していくべきなのか。映画はそうした問題に直面している。そして『エリエリ』のラストでもまた、ベルイマンの『十二夜』のラストと同じ静かな雪が降る。

梅本洋一