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August 3, 2005

『世界』ジャ・ジャンクー
藤井陽子

[ cinema , cinema ]

『世界』を見ていた最中も、『世界』を見たことから何かを言い表したり考え始めようとしたときも、自然と思い浮かんだのは「プンクトゥム(ふいに私を突き刺すもの)」という言葉だった。ロラン・バルトがかつて用いて、彼自らの手であっという間に覆してしまった言葉だが、「プンクトゥム」という言葉の響きも意味も、『世界』について何かを言うときにいちばんしっくりくる、ぴったりの言葉だという風に思えたので、私はこの言葉を使いたい。

「世界は何からできていて、何が世界を世界たらしめているのか?」といった、途方もない考えが『世界』を見ているとどうしても湧き上がってきてしまう。世界を構成しているものは、あるいは世界のしるしになっているものは、エッフェル塔やマンハッタンやピラミッドやタージ・マハルやピサの斜塔や富士山だろうか? それらのしるしが喚起する「国々」の集まりだろうか? それとも「世界公園」の中や外で日々を営んでいる「人々」だろうか? あるいはそこに溢れている「声」や「音」だろうか? 目に映る「風景」だろうか? 「世界を知る」とは、「世界を見る」とはどういうことだろうか? 例えばタオがそうするように望遠鏡をのぞくことは「世界を見る」ことだろうか、あるいは「映像を見る」ことは「世界を見る」ことだろうか?
 問いは漠然と広がっていってしまう。私はそれにうまく答えることができないし、うまく答える必要性をあまり感じていない。ただその「日々変わる世界」という時間を目にするあいだ、あちこちに浮かび上がる問いを横目にやるなかで、ふと「プンクトゥム」に襲われる瞬間がある、ということが、強度を持った事実として言うことのできる唯一のことのように思われる。それはタオとアンナが共に頬に受ける夜風のことで、ホステスになったアンナを思ってタオがあげた小さい泣き声のことで、死んだアークーニャンの補償金を数えるときの紙銭の擦れる音のことだ。プンクトゥムの瞬間、映像と音とそこで起こるあらゆる出来事と問いに覆われた把握のできない漠然としたものから、剥きだしの、とても「具体的なもの」が飛び出してくる。世界を認知するということは、そのような「具体的な」プンクトゥムによることでしかないのかもしれない。「僕にとっての“世界”とは、抽象的な概念ではない」とジャ・ジャンクーも確かそのように言っていた。少なくともそれらプンクトゥムが、世界を知りたいと思うときの着火点となっていることは確かだ。
 そう考えてみると、『世界』を受けて王兵の『鉄西区』を思い浮かべる、という話を小耳にはさんだとき、それがとても自然に受け入れられたのは、彼らの共通点として挙げられる「デジタルカメラの使用」や「北京電影学院」といったものからではなくて、どちらの映画も見ているとどうしても「プンクトゥム」という言葉を思い浮かべてしまう、という点においてなのだと私は言いたい。どちらの映画も、茫漠として把握できないものの中に突如現れる剥きだしの具体的なプンクトゥムによって、世界を認知したいと思うその始まりの場所に、見るものを否応なく引きずり出してしまう、という途方もないことをやっているのだ。

 先に、『世界』を見ると新たな問いが次々に浮かんできてしまうと言ったが、それと同時に今まで点在していた問いもこの映画に向かって引っ張られていくように思われた。というのは、つい先日、リービ英雄の『千々にくだけて』のなかで、WTCの崩壊の映像が、煙草の燃えさしの映像をかいして書かれる(あるいはそれは本当にただの煙草の燃えさしだったかもしれない)という話をしていたことがまず下敷きとしてあって、「世界公園」の中にある「WTCのある」マンハッタンのビル群を背景に、申し合わせたように2本の煙草をふかす2人の男を見たとき、咄嗟にリービ英雄のことを思ってしまったし、つい先日見た、WTC崩壊以後のアメリカの姿を描こうとしたヴェンダースの『ランド・オブ・プレンティ』のとった方法のこともやはり考えずにはいられなかった。
 点在していた問いがこの映画に向かってぐんぐん引きつけられているのを感じ、またプンクトゥムに貫かれ、何度も胸がいっぱいになった。映画の最後でタオが、「ここが新しい始まりよ」と言ったように、この映画から何かが始まるような、そんな気がしてならなかったのだ。

『世界』
秋、銀座テアトルシネマにてロードショー