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May 8, 2006

『ニュー・ワールド』テレンス・マリック
田中竜輔

[ cinema , sports ]

『シン・レッド・ライン』の舞台で『天国の日々』を撮ったようなフィルム。この映画のことを聞いてからというものそんなイメージを漠然と思い浮かべていたし、実際にそのような感想も聞いていた。確かにそれは間違ってはいないだろう。だが、『ニュー・ワールド』は決してテレンス・マリック自身のリファレンスによってのみ作り上げられただけのフィルムではない。
 たとえば、原住民の一人が地面に荷物を置くという些細なアクション。その本当に些細なアクションに附随する物体の落下音が他に存在する様々な環境音と映画音楽との隙間を縫って強調されていることを聞くとき、あるいは、映像に対するオフの音としてクリアーに聞こえていた荘厳なクラシック音楽が、ふと屋内にショットが切り替わると突然壁にさえぎられたかのようなくぐもった音色へと移行することを聞くとき、このフィルムから聞こえてくるあらゆる「音」は、決して映像の外部にあるのでも映像の内部にあるのでもないことを知る。『ニュー・ワールド』において、個々のショットがあらゆる時系列や空間の連続性を無視して繋げられていることは、この空間の否定のための材料にはなり得ない。このフィルムにおける「空間」の概念とは、ある主観において切り取られた箱庭的世界の表象ではない。複数の視点によってある空間が重層化されることもあれば、あるいはまったく視線が向けられないことによってその空間は消失させられてしまうことさえある。その複数の空間が何の違和もなく繋げられていることに驚くのは、ここにはある空間とある空間を分断する境界がまったく提示されていないからだ。そして「音」は、複数の空間が断絶と接続を高速で繰返すその軌道上を颯爽と横断してしまう。このフィルムにおけるイギリス人大尉のコリン・ファレル、そしてポカホンタスを演じるクオリアンカ・キルファー——彼女は「音」としての「言語」をも容易く飛び越えてしまう!——はその「音」に導かれることによってのみ「新世界」を発見する。
 新大陸発見の物語、それは見知らぬ土地に訪れた人々とその土地にもともと住み着いていたそれぞれの人々が、相互に「新しい世界を発見する」という行為において、複数の世界の「交換」を遂げる物語なのではないだろうか。この『ニュー・ワールド』が発見する「新世界」とは、映像と音、あるいは認識的な空間の内部/外部の構造そのものが決壊し、あらゆる存在が不意に目の前に訪れるという状況下において、超現実的な知覚——すなわち「映画」という「体験」において——によってのみ見出されるものとしてある。『ニュー・ワールド』とは、それ自体としての「事件」の名称なのだ。「事件」とは唐突に起こるものとしてしか存在しえない。予測も期待も、あるいは前提さえも「事件」には役に立たない。そのためにこのフィルムでは、この物語を始めるため、そして終わらせるために必然の契機であるはずの航海の様子が、その到着と出航の短い時間を除いてほとんど映し出されていない。登場人物がある世界に至るまでのプロセスを排除し、その結果だけを漠然と混沌のままに提示すること。それによってこのフィルムは「歴史」としての新大陸発見そのものを「振り返る」ことに留まることを拒否し、ポカホンタスにまつわる神話的な「物語」を「語る」ことをも否定する。ただそこに新たに生まれる「事件」としての「新世界」を「見聞き」するためだけに、あらゆる可能性の総体として『ニュー・ワールド』は存在している。

4月22日、サロンパス ルーブル丸の内ほか全国ロードショー