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August 17, 2006

『叫』黒沢清
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 ここには『回路』がある。ここには『CURE』がある。ここには『降霊』がある。そしてここには孤独な刑事がいる。だからここには『カリスマ』もある。だから、『叫』で黒沢清はそれまでの自らの集大成を行っているのかもしれない。映像や演出の面でも話法の面でもそれは確かだ。だが、それ以上にこのフィルムには地霊が棲みついている。かつて鈴木博之が書いた書物に『東京の地霊』(文藝春秋)があった。東京から選ばれた13の土地。それらの土地の「地霊」と現在の姿を比較考察した極めて興味深い書物だった。
 考えてみれば、「地霊」が棲む東京のランドスケープは、『CURE』から『アカルイミライ』に至る、優れて黒沢清的な主題だった。変貌する速度が想像を絶するほどに速い東京というランドスケープ。それをWTCの廃墟が記憶に新しい9,11以降、あるいはポートアイランドが液状化して海水が流れ込んだ神戸大震災以降、東京に置き換えて思考し直してみる作業。『叫』は、ホラー映画の系譜といった映画内的な作業を大きく逸脱して、黒沢清をつきまとって離れてくれない「世界」と「映画」の関係の中で、「地霊」をどのように形象化するかという困難であると同時に、造形的に興味の尽きない作業を正面から行っている。「水」、「土地」、「歴史」そして「ランドスケープ」と連続した主題──それはとりもなおさず運動しつつある「世界」を失われた「時間」の中でどのように捉えることができるのか、ということだ。
 多方向に逸脱を続けることで、映画に新たな可能性を拓いた『Loft』とは対照的に、それまで黒沢清が実践を続けた作業を、もう一度再審に付す作業──それこそ『叫』という一本のフィルムである。逸脱がない代わりに、極めて高い完成度がこのフィルムにはある。