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August 25, 2006

『水の花』木下雄介
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 PFF出身の俊英の新作。俳優の演出の面でぎこちなさは残るが、このフィルムを弱冠24歳の監督が撮影したとはやはり俄には信じがたい。父母の離婚後、父の許に残った女子中学生が、ひょんなことから父との離婚の原因になった母の子に出会い、ふたりの奇妙な時間が過ぎていく。それだけの話だ。だが、フィックスのショットに収まった中学生の揺れが正確に伝えられている。その主題、その方法の面で、この作り手は明らかに映画作家と言える。
 だが──ここからが重要だ──、先日見た『ゆれる』と同様、この『水の花』にもフレーム外はまったく見えない。スクリーンの外側に荒々しく流れているはずの世界の渦がまったく感じられないのだ。まだ2本しか同じことを感じていないので、それを傾向と呼ぶことに大きなためらいはあるけれども、小さな世界を小さく精密に描くことが「日本映画のある種の傾向」と言えるのではないか。映画とは登場人物の心の動きの機微を演出に託すだけのものなのか。映画はそんなに小さなものではないとぼくは信じている。どういうアングルで「世界」を映し出しても、そこには「世界」の一部が厳然と顔を覗かせてしまうものだとぼくは思っている。だが、最近の若い日本の映画作家たちの作品を見て感じるのは、映画のフレームが強固に存在していて、そのフレームの内部の小世界の描写だけに腐心していることだ。小さな家族の物語の外側には世界などいっさい存在しておらず、その小家族の問題だけが世界を構成しているように感じられる。小世界の描写には磨きがかけられているが、その小世界を描けば描くだけ、外部の世界はその非在感を増していく。イラクもレバノンも関係ない。パレスティナも関係ない──もちろん、そうした世界の時事問題を描けばよいと言っているのではないけれども。そう、思い出してみよう。
 今から15年ほど前、ぼくはアキ・カウリスマキの作品を「発見」した。どの作品でもいいが、たとえば『マッチ工場の少女』。その少女の心の襞が映画の推進力になることには変わりはないが、そのフィルムには確実に、少女が生きる世界の外部が存在し、それが荒々しく少女の生きる小世界にも介入してきたのだ。マッチ工場で働く少女はガランとした部屋に帰り、テレビを点ける。ニュース番組だ。中国の天安門が映り、多くの若者たちが、戦車の移動を身を以て制していた。もちろん物語上、そんなシーンは不要である。だが、カウリスマキにとって、その少女と同時代を生きる同じ世界の同じ世代の人々の行動を映し出すことは重要だった。映画は世界と共にあるしかその存在の意味がないからだ。『水の花』を見ていると、このフィルムの作り手にとって重要なのは、フレームの内部の世界をどう組み立てるかということだ。もし映画が、そんなものだとしたら、骨董品屋の目利きが壺の模様をながめているのと同じことだ。