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August 25, 2006

三信ビル、その後
梅本洋一

[ architecture , architecture ]

 先日、日比谷を歩いていたら、三信ビルがガランとしているのに気付いた。ビルのテナントはもうほとんどが引っ越し、「ニューワールド・サービス」だけがほそぼそと営業を続けていた。韓国観光協会もヌーヴェルヴァーグもその姿を消し、美しいアーケートの中央には壁が設けられ、調査のため立ち入り禁止の紙が貼られていた。いよいよ解体へと秒読みが始まっているのだろう。
 ネットで調べてみると、三信ビル保存プロジェクトも提案されている(www.citta-materia.org/sanshin.php)。大家の三井もこのビルの解体についてその方向性を多様に探ると記載したが、それも解体への単なる手続き上の段階に過ぎなかったのか。その探求の結果はサイトにまったく記載されていない。保存プロジェクトは、三信ビルをそのまま保存し、となりに高層を建てるというものだ。交洵社ビルのように空しく一部だけファッサード保存をせず、全体を保存する案には賛成だが、隣に超高層を建てる理由がどこにあるのだろう。建築とは妥協の連続であることはぼくも承知している。この案ならば三井不動産もひょっとすると採用するのではないかという期待を抱いているのかも知れない。保存は敗北の連続だという藤森照信の意見も貴重だ。しかし、三菱地所の丸ビルは、あのビルを単なる垂直に連なるショッピングモールにしてしまった。重要なのは、かつての丸ビルの1階に存在した十字路という通路と、その両側の商店街だった。三信ビルが貴重なのは、そのデコラティフな装飾でもあるけれども、やはり1階のパッサージュだった。ストリートをビルの中にまで招き入れ、外部と内部を通底させるように外部でも内部でもあり得る通路をビルの中に捏造すること。それがパッサージュだ。六本木ヒルズも表参道ヒルズも、かつてのパッサージュ(あるいは現代的な意味におけるストリートでもいい)をショッピングモールにしてしまった。どこの地方の町にでもあるショッピングモールと同質の巨大なそれを出現させたに過ぎない。そこからは文芸は生まれない。運動しつつある活性化した何かが生まれない。森ビル系列の開発担当者がベンヤミンを読んでいるとは到底思えないが、東京の重要なストリートを次々にショッピングモールとホテルに改造することこそ近年の再開発の思想だ。
 三信ビルの美しいパッサージュは、その人が水平に運動し、その運動を交通として認めようとする実に機能的かつモダンな思想に裏付けられていたと思う。最近、川島雄三のフィルムを連続してみるが、彼はどんなフィルムでも(たとえ時代劇でも)そうした活況を呈するストリートをフィルムに収めていた。そんな東京からその最後の吐息が漏れはじめている。