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January 12, 2007

『恋人たちの失われた革命』フィリップ・ガレル
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

「しかしお前たちが現にいるところの夜はまだ本当の〈夜〉にとっての〈長い前夜〉にすぎない(……)あらゆる〈夜の子供たち〉よ、〈異形の者たちよ〉、まだ夜の底へ堕ちてゆけ。まだ毒の海に入ってゆけ。まだ狂気と亡びへ降りてゆけ(……)本当の地獄を探せ。本当の廃墟へ向かえ。お前たちの〈夜〉はありとあらゆる意味で忌まわしく狂おしくなければならない。そのためには最後の夢さえもしめ殺してゆかなくてはならない」(間章、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド試論」)

 徴兵を逃れるため家に訪れた警官を追い返したルイ・ガレルは窓を開け、階下に佇むひとりのヴァイオリン弾きの姿を見、その男が奏でる陽気なメロディを耳にする。しかし「室内」に響き渡るのはその単旋律だけではなかった。聴こえるはずのないアコーディオン(?)の伴奏、窓を開けた瞬間にヴォリュームを上げるその音楽は、その場所で聴こえるはずのない音楽、むしろ聴こえてはならないはずの音楽のはずだ。男女数人が集まる暗い部屋の中ではニコの「Vegas」やキンクスの「This time tommorow」が流れた。それらも68年から69年を舞台にしたこの映画の中に本来ならば響いてはならない音のはずだが、それとこのアコーディオンの音に対する違和はまったく異なる。それらの楽曲は物語上の年代設定としての矛盾をはらんでいるにすぎない。アコーディオンの音が異様なものとして聴こえるのは、その音が確かにフレームの内部に響き渡る音として加えられているのに、その音はそもそも鳴り響いているはずのない音なのだ。
 この状況とは決して一致こそしないのだが、同じような音に関する違和を感じた映画が去年あったことをふと思い出した。しばらく考えて思い出したのは、テレンス・マリックの『ニュー・ワールド』だった。その場所において決して響き渡るはずのない荘厳なオフの楽曲と、ふとした自然音のバランスが些細な移動の中で入れ替わってしまうような、そんな瞬間を何度も体験した。『ニュー・ワールド』においては、その一方にある極彩色の映像の混沌とした繋ぎにおいて、そもそもの物語である新大陸発見の物語が、知覚における「世界」そのものの発見に結びつけられていた。それになぞらえてみると『恋人たちの失われた革命』では、鳴り響くはずのない音楽が当然のことのようにそこに鳴り響くことによって、冷たく乾いた白と黒の織り成す映像が指し示すものを「68年」というある歴史上の一点から解き放ち、「普通の恋人たち」の倦怠そのものとして、特定の何かを指し示すこと以上のものとして、スクリーンに現出させているように思う。つまりこのふたつのフィルムにおいては、コスチュームプレイによって示されるだろう、限定された時代そのものを率直に描写するのではなく、そこに類似以上の何かを現出させようとしていることこそが焦点にあるのだ。
 だが、このふたつのフィルムをならべて考えて見ると、ひとつだけどうしても気にかかることがある。それはスクリーンに映し出されたすべてが、どちらもきわめて「美しかった」ことだ。その「美しさ」をどのように定義づければいいのかはわからないが、『恋人たちの失われた革命』のあらゆるショットは、溜息をつきたくなるほど「美しい」と思う。ウィリアム・ルプシャンスキーの撮影が素晴らしいことなどはじめからわかっていたことだった。しかし、それでもなお、このフィルムは「美しすぎる」のではないか、と思えてしまってならないのだ。
 もちろん、私は「68年」の夜の「深さ」や「冷たさ」を知りはしないし、このフィルムに描かれているような絶望的な倦怠を味わったことはないから、そんな気楽なことが言えるのかもしれない。こんなことを言う資格など私にはないのかもしれない。だが、このフィルムで演じる若者たちも、無論68年を知らないはずだ。彼らはこのフィルムの中に何を見つけていたのだろうか。このフィルムはユスターシュの『ママと娼婦』を意識していないはずはないだろうが、あの73年に映りこんでいたあの過酷な、絶望的な、咳き込むほどに埃に塗れていた恋人たちの倦怠と『恋人たちの失われた革命』の恋人たちの表情を射す光の中に漂う倦怠は違う。警官に追われ屋根の上を逃げ回ったルイ・ガレルの顔に付着した、あの黒々とした汚れは、より深く、洗い落とせないほどに塗りこまれるべきものだったのかもしれない。

東京都写真美術館ホールにてロードショウ中