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January 13, 2007

『LOFT ロフト』黒沢清
松井宏

[ book , cinema ]

 黒沢清の新作『LOFT』が先週よりパリで公開されている。日本より遅れることほぼ3〜4ヶ月だが現在の日本人作家の新作がこうして海外で公開されるのはやはり素直に喜ばしいことだ。「日本映画ブーム」が去って久しいフランスに限ればなおのことなのだ。それにしても黒沢清がファンタスティックというジャンルを掘り下げつつメロドラマの要素を明白にしてゆくのは、やはり世界がいまだ世紀の境にあるからだろうか(100年前の世紀の境でも大衆文学がそうだった)。とはいえここでは、顔を巡る愛のサスペンスはのっぺらぼうを巡る愛のサスペンスになり、死者を復活させるほどの愛はミイラを復活させるほどの愛になる。 
 女流小説家(中谷美紀)が素晴らしい手付きで覆いを取って現れたミイラの顔は、なんとのっぺらぼうなのだ。まあそもそもミイラは総じてのっぺらぼうなのだろうが、『LOFT』のそれ(このミイラは女性)は腐敗してのっぺらぼうになったというより、これから最後に顔を彫られるのを待っている粘土彫刻のような、そんなのっぺらぼうに見える。そして恐ろしいことに、女流小説家と考古学者との最初の向かい合いのとき、彼女もまた擦りガラスを通して彼の前にのっぺらぼうとして現れるではないか。
 考古学者はミイラにえも言われぬ感情を覚えている。それはおそらく彼女がのっぺらぼうだからだ。黒沢清は「ミイラと死体の違いってなんでしょう」と語っているが、少なくとも『LOFT』でのその差異は顔の有無だ。死体に顔ありミイラに顔なし。いうなればその灰色ずむミイラは蝶が誕生する直前の蛹だ。やがて蝶が美しい羽根を広げ、自らの映像を誕生させるように、ミイラは生を待ち、自らの顔の誕生を待っている。死体が一種の映像の極限に触れるというならば、ここでのミイラは映像を誕生させる蛹であり母胎なのか。とはいえそれより、もっと下世話な話、我々はのっぺらぼうをよく知っているのではないか。なぜならかつて愛しながらも別れてしまいその後いちども会っていない相手の顔を我々ははっきりと思い出せない。断片が浮かび上がり、他の顔と混ざり合いながら、結局はのっぺらぼうになってしまう。悲しくも驚きの事実。
 おそらく考古学者がミイラに抱く感情は愛なのだが、しかしそれが愛だと自覚できないゆえに彼は悩んでいるみたいだ。のっぺらぼうに顔を与え、蛹から鮮やかな蝶の羽根を生まれさせるのに必要なのは、新たな映像を作り出すことと同時に過去の記憶映像を鮮明にさせることだ。それは「いつ会っても初めてみたいだね」とか「1000年来の恋だね」という歯が浮くような愛のクリシェともいえるが、しかしそれの何が悪い。「レイコ」と、知らないはずの下の名を突如叫ぶ考古学者にとって、ではやはりその女流小説家こそ愛の自覚に至る相手なのか。そうなのだが、そこに現れるのが安達祐実演ずる女性の幽霊であり、もうひとつのメロドラマ=悲劇だ。つまり彼女こそのっぺらぼうに与えられるべし顔のモデルになるのだ。その最初の一瞥から「どうやってだかわからないけど僕の中に入り込んできた」(素晴らしい愛の告白!)彼女の顔が考古学者にとって理想のモデルとなって、だから彫刻家がモデルを激烈に愛して悲劇が生まれるのと同じく(彼が安達の死体を掘り出す手付きは粘土彫刻をこねる創作者のごとき官能的なものだ)、実際のところ彼はいちばん激烈に安達祐実を愛し、そして悲劇へ雪崩れ込む。「飾り窓の女」か、あるいはオフュルスかイプセンのような、作品とモデル、創作と女性を巡る苦しげで感動的な寓話さえそこにはあるか。ともあれ生と死を曖昧にさせ、過去と現在の時間軸を狂わす彼女の「復活のとき」のシークエンスこそ、男と女のもっとも激烈な愛しあう時間になるのだった。あれこそ「いつ会っても初めてみたい」でかつ「1000年来の恋」。