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July 27, 2008

『奇跡のシンフォニー』カーステン・シェリダン
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

 予告編を見て、『ボビー・フィッシャーを探して』に近い映画に違いない、見に行かなきゃなと思いつつも、同様に予告から『スリーキングス』だと判断した『ハンティング・パーティ』がそれほどそうでもなかったので、足がなかなか向かなかった『奇跡のシンフォニー』を終了間際になってやっと見た。
 チェスと音楽というそれぞれの題材の映像的な処理の面では『ボビー・フィッシャー』に及ばないとはいえ、『奇跡のシンフォニー』も決して悪くない。かつて阿部和重は『ボビー・フィッシャー』の少年について、彼はふたりの師の互いに相反する教えをどちらも忠実に守る、というようなことを書いていたように思うが、『奇跡のシンフォニー』のフレディ・ハイモアについてもそれに近いことが言えるだろう。ロビン・ウィリアムズの属するストリートの音楽と、ジュリアード音楽院で学ぶクラシックの素養。それらは実は彼の未だ見ぬ両親それぞれの音楽的なバックグラウンドであるというわけだ。
 だがこの映画と『ボビー・フィッシャー』の天才少年の違いとして、そうやって開花する彼の才能が、大人たちが彼に託したかつて持っていたはずの可能性の発露では決してないということだ。彼はその才能を通じて、大人たちの代わりに夢を実現するのではなくて、むしろ彼を介して大人たち自身がセカンドチャンスを得る。少年のモノローグによって幕を開けつつも、すぐに彼が生まれる前の過去へ遡行してしまうという風変わりな構造もその辺に由来しているのだろう。個人的にはフレディ・ハイモアの不幸を一身に背負ったような顔が大嫌いだが、この映画における彼は、不幸も音楽も男女の出会いもただ彼を介して通り過ぎていくだけの媒介のようで、それには好感が持てた。やっと父、母、子が出会ったコンサートのその後が描かれないのはそのためで、その選択は正しい。
 しかしやはり特筆しておきたいのは、テレンス・ハワードのことだ。映画の冒頭で物語を駆動させるという重要な役割を演じる彼だが、その後ちょくちょく画面に登場してもほとんどなにもしない。にも関わらず彼も最後のコンサートシーンになぜかひょっこり現れる。物語的にはまったく必然性のない、彼の顔のクロースアップの挿入が無性に感動的で、媒介するという才能についての作品であるこの映画が成立するのは、彼のような才能が媒介しているからではないかと思った。