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July 28, 2008

『ハプニング』M・ナイト・シャマラン
宮一紀

[ cinema , sports ]

 前作『レディ・イン・ザ・ウォーター』は、驚くほど何の確証もないままに、「他のどこでもないここ・他の誰でもない君」という、あらかじめ取り決められた予定調和の世界を彷徨するフィルムだった。まるでロール・プレイイング・ゲームででもあるかのように事件が起き、物語が進展する様を、私はただじっと傍観するより他になかった。

 常に「ここではないどこか」を目指し、「ここにはいない誰か」を欲している点で、『ハプニング』は前作と決定的に異なっているように見える。自殺衝動を誘発する毒素から逃げるように彼等は西を目指し、携帯電話で親戚や知人と連絡を取り続ける。アメリカ軍が中東で展開する軍事作戦の模様がまるで観客に対する気の利いた目配せででもあるかのようにテレビモニターに映し出された前作とは違い、今作では特権的な固有の名を冠したいくつもの土地を実際に廻りながら物語が展開する。ニューヨーク、フィラデルフィア、プリンストン、そしてパリ。これまでのシャマラン作品には決して見ることのできなかった都市が、たしかにその相貌を垣間見せている。

 もっとも、原因不明の出来事が語られながら、今度も事態は予定調和に進行する。映画中ふたりの人物が的確に予測するように、人々の発作的な自殺の発生件数は、ピークに達すると急速に停滞し、そしてすぐさまピタリと止む。もちろん映画には脚本があるのだし、予定調和であることを完全に避けることなどできまい。だがそれにしても、思考回路に異常をきたしているはずの人々が、あまりに想像力豊かなやり方で命を絶っていく様を目の当たりにすると、そのあまりにも慎ましさを欠いた画面が、ナラティブに見られる道徳的なスタンスからかけ離れたものにしか見えず、そこにある乖離に戸惑ってしまうのである(*1)。

 そして、物語も後半に差し掛かる頃、私は再び例の閉塞感に苛まれることになる。彼等は毒素を発する植物がどうやら人間を感知して攻撃しているらしいと早合点し、ひたすら人間のいない土地を求め、地図にも載っていない町へとたどり着く。そこへ到着する頃には、他の大勢の人間たちは死に、主人公夫婦と小さな女の子だけが生き残っている。結局のところ、彼等が求めていたのは、「他の誰でもない君」と共に、「他のどこでもないここ」に留まることでしかなかったのである。

 やがて三人が極限の状況に陥るとき、夫婦は不意に出会った頃の思い出話に耽ってしまう。親友から託された女の子の存在など完全に頭から消え去っているかのようだ。たったひとりの女の子さえ守ろうとしないこのフィルムが、妊娠という生の兆候をもって安易に救いや希望を叫ぶことの独善に私は白々しさを覚えてならない。かつて映画は幾多の魅力的な脱出劇を描いてきたが、ここに見られるのは周到に脱出劇を装ったに過ぎない後ろ向きの籠城でしかないのではないか。


*1
 おそらくその場で想定しうるもっとも愚鈍な方法で命を絶ったのは、頭を家の外壁に幾度も打ちつけた白髪の老婆だったが、果たして彼女がわざわざ私たちの目前までやってきて窓ガラスに頭突きをする必要はあったのだろうか。そこにいくら頭を打ちつけても衝撃が吸収されてしまうので到底死ねるとは思えない。あるいは、動物園でライオンの檻に入った男が食い千切られていく様が、携帯端末を介して遠く離れた人々に伝えられる必然性はあっただろうか。いったい人は何の悪意があってそんな映像を親戚や知人に送るのだろうか。ましてや芝刈り機に頭から吸い込まれようなんて、よほどの目立ちたがり屋でなければ思いつかない死に方ではないか。そのように人々は周到に効率の良い死に方を避け、やたらと面倒な手順を踏んで派手に死んでいくので多いに笑ってしまったのだが、果たしてそれらがジョークだったのかどうか、確信が持てないでいる。


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