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February 19, 2009

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』デヴィッド・フィンチャー
田中竜輔

[ cinema , sports ]

 ベンジャミン・バトンに刻まれていくのは、重力によって不可避に与えられる皮膚の歪みではなく、彼が体験した様々な出来事の集積だけだ。しかし老年期から出発する彼の人生には、その時間のベクトルの逆転を別にすれば、はたしてドラマティックな事柄など存在したのだろうか。もちろんこれは映画でありフィクションなのだから、現実の人生に比べればよっぽど派手で突出しているのかもしれない。けれども実のところこのフィルムには、ちょっとだけ年をとりすぎた迷子や船乗りが、あるいはちょっとだけ若すぎた父親や別れた夫がいただけなのではないか。かつてフォレスト・ガンプという男が生きたアメリカ史を大またぎする壮絶な人生に比べれば、あるいはある老いた言語学者に落雷によって与えられた二度目の人生に比べれば、ベンジャミン・バトンの人生など、あくまでほんのちょっとだけ特殊なケースに過ぎないだろう。
 デヴィッド・フィンチャーは、このほんのちょっとだけ、という触れ幅だけを足場に、ひたすらに「物語る」ことだけを徹底する。ベンジャミンの身体的な特質に伴うエピソードももちろん描かれはするけれども、それよりも彼が「普通」に成長し、労働し、恋をする様の方にこそ執着している。少しずつ若返っていくブラッド・ピットと少しずつ老いていくケイト・ブランシェットの存在感に目を奪われつつも、しかし同時にその傍らで老いてゆく人々、成長していく人々、死んでいく人々と、生まれていた人々がいることを、時折はっとしたように気付かされる。ブラッド・ピットの顔からいつの間にか失われた皺は彼の育ての母であるタラジ・P・ヘンソンの顔に刻みこまれていて、彼がその街を出る前に彼女が身籠った子供は当たり前のように快活な少女としてそこにいて、かつてロシアのホテルの中で愛を交わしたティルダ・スウィントン演じる婦人の姿は彼の目撃するブラウン管の中で人生の晩年に夢を叶えていた。しかしこのフィルムは、そういったあらゆる人々の時間のゆるやかな継続を描くのではなく、ただそれらが既に過ぎ去ってしまったということを指し示すだけだ。
 誰かの生きた人生について語るということは、必然としてその彼の人生に起きた事柄の大部分を省略してしまうことにほかなるまい。しかしこのフィルムは「それがどうした?」と言わんばかりに、ベンジャミンの人生を断片的に、しかしまぎれもなくひとつの流れの中にあるのだと、語り続けることをやめない。まるで『ビッグ・フィッシュ』のアルバート・フィニーが息子に話し続けた嘘のように、「語る」ことへの徹底した意志が、現実を追い越そうとしている。ベンジャミン・バトンの人生は第一次大戦の終わった夜に始まり、イラク戦争の開戦前夜に閉じられる。だがフィンチャーは、彼に本来属していないその前後の時間をもその人生の内部で起こった出来事であるかのように、色彩と音響との中に躍動させる。この強固な「語り」の意志は、フィンチャーの映画の世界をこの先どのように彩ってゆくのだろうか。あまりに「始まり」に似た彼の「終わり」を確かめたあとに、かつてルーズベルトが落成式に参加したあの大きな時計が、カトリーナと名付けられたハリケーンをきっかけに、およそ一世紀前と同じ方向に再び回り始めていた。

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