« previous | メイン | next »

February 23, 2009

『チェンジリング』クリント・イーストウッド
田中竜輔

[ cinema , music ]

 ダニー・ボイルの圧勝に終わった第81回アカデミー賞の結果がはたして妥当なものかどうかは、『スラムドッグ$ミリオネア』だけでなく『MILK』や『フロスト×ニクソン』、そしてケイト・ウィンスレットが主演女優賞を獲得した『愛を読むひと』といった作品をまだ目にしていない私には判断できないけれども、アンジェリーナ・ジョリーの生涯最高の配役のひとつに違いないクリスティン・コリンズ婦人ならば、はたしてどの作品に2ドル賭けていただろうか。私たちが『チェンジリング』という偉大なフィルムとともに辿り着くのは、路面電車の走る街並みの片隅に映り込むアンジーの颯爽とした歩みであり、そしてその傍らにある映画館にシンプルに飾られた「It Happened One Night」の文字、アカデミー賞受賞作品『或る夜の出来事』の原題。『チェンジリング』はまさしく「或る夜」の出来事についてのフィルムだ。
 ウォルター少年は夜には決してひとりで外出などしないとアンジーは言う。それが一日の終わりを告げる単なる夜であるならば、おそらく少年はそのようにあるのだろう。けれども、その夜が決して終わることのない「或る夜」であるのならば、その場所が朝の光を窓から受け入れることのできない場所であるのならば、そして「いつも冷たい」朝食が用意されている場所ではないのならば、そこで彼は夜に怯えているだけではもちろんいられない。そこはつねに「夜」であるような場所であり、おそらくこの先も夜であるような場所だからだ。そしてそこでは時折射し込む光でさえも、ただその夜の深さを確かめるものでしかない。
 震え続けるアンジーの真っ赤な唇は、そして赤い路面電車は、蓮實重彦氏の指摘する通りまさしく映画作家の刻印としての色彩であるだろう。そこに不吉さを持ち込み、決定的な意志を物語の枠を超えて提示する赤。それに対し黒が、唇のほんの少し上でアンジーの瞳の淵をつねに彩っている。彼女が光を呼吸する器官のすぐそこには、いつも夜がある。ときに涙に濡れてその色彩は周囲に広がりもする。彼女の光には、そうやっていつも夜が滲んでいる。彼女もまた「或る夜」のなかにその身をおき、その夜を生きなければならないことを知っている。
 それがいつか明けることを待つのでも、その夜から目を閉ざすでもなく、ひたすらにその「或る夜」を生きること。ひととき瞳の淵にある夜を奪われ、医師の持つ紙の白さというかりそめの安息の朝に近づいたとしても、それはもはや希望などではないのだ。その夜を生きることを決めたのならば、その暗さを恐れてはいけないし、夜の仲間とともに、自身もまた夜の住人であることを選ばなければならない。イーストウッドは少年が「或る夜」に足を進めたということ、ただそれだけを希望であると映し出す。夜の狩人から少年がはたして逃れられたのか、彼が朝の光を浴びることができたのかを知ることはもはや問題ではなく、そしてその希望が煌びやかな色彩を有しているなどとということもない。アンジーが見つめる希望は、そのまま彼女の瞳の色であるような、深く、重く、しかし気高く蠢く、夜色の希望だ。

全国ロードショー中