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May 23, 2009

『夏時間の庭』オリヴィエ・アサイヤス
梅本洋一

[ book , cinema ]

 満員の銀座テアトルシネマの上映後、銀座の舗道に出ると、背後からこんな会話が聞こえてきた。「あのオルセー美術館のレストランのシーンを見てたら、オルセーに行ったときのことを思い出したわ」「そうね。2年前だったわね」かなりの年長の婦人たちがそんな会話を交わしながら、銀座を歩いていた。
 だが、とりあえずオリヴィエ・アサイヤスのフィルムで、映画館が満員になったことは良いことだ。このフィルムにはオルセーが全面的に協力していて、本物の展示品を多く貸与してくれている。しかし、このフィルムは、オブジェが生き抜くために、現実の生の息吹の中で存在すべきだというフィルムだ。花瓶は、たとえそれが高価な美術品であっても、実際に花が生けられ、生活する人の室内に置かれるべきだというフィルムだ。
 オリヴィエ・アサイヤスのフィルムには、いつも時間が流れていくのを感じる。『八月の終わり、九月の初め』というタイトルについて、彼に尋ねたとき、時間が流れていくことを感じてもらうタイトルにしたかったと言っていたのを思い出した。人が死に、この世界にいなくなることで、その人の周囲にある多くのオブジェも変化していく。誰かがこの世界がから消失することは、だから、いろいろな人のその後の人生にも大きな変化をもたらさずにはいない。
 オルセー美術館も、それが美術館になる前は、ジャン=ルイ・バローが主宰していたオルセー劇場だった。ぼくは、そこで何度か舞台を見たことがある。そして、オルセー劇場になる前は、オルセー駅だった。駅に行き交う人と、劇場に集う人と、美術館に集う人は異なる人々だ。建物の用途が変わると、その空間の色彩も変わっていく。かつてオルセー駅は、『暗殺の森』のロケセットに使われ、そのフィルムでは、ホテルだった。
 しかし、変わっていっても存在しているオルセーという空間はまだ救いがある。この『夏時間の庭』で、老婦人の家事を手伝っていたエロイーズが、亡くなった老婦人の形見にそれとなく選ぶ、本当は貴重な美術品である花瓶。きっとあの花瓶にはまだ花が生けられているだろう。それに対して、オルセー美術館に作者名と共に展示された花瓶には、もう花瓶という生命がない。だが、なくなっていくこと、変わっていくことを嘆いてはいけない。確かに悲しいことだけれども、ぼくらは何かを生み続けなければならないし、何かが変わっていくのを否定してはいけない。思い出してみればオリヴィエ・アサイヤスのフィルムは、いつもそんな感じのするものだった。

銀座テアトルシネマにてロードショー中