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August 14, 2009

『シャルロット・ペリアン自伝』北代美和子訳
梅本洋一

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 「創造の人生」という原題のシャルロット・ペリアンの長大な自伝を読み終えた。上下2段組で450ページ近い長さも、96歳で1999年に亡くなった女性の人生ならば当然のことだ。今から10年以上前──つまり、まだ彼女が存命中に、新宿のOZONEで開催された彼女の個展のとき、モニターには彼女のインタヴューが投影されていた。まだまだ元気そうだった。彼女は20世紀の全体をほぼ走りきった。その膨大な仕事には、LC3のような有名なものではなくても、それとは知らずに触れたものも多い。フランスに住んでいた頃、トロワ・ヴァレーのメリベルにスキーに行ったことがあるが、木造のシャレーは彼女の手によるものだった。レ・ザルクにも行ったことがある。彼女が内装を手がけたルコルビュジエによる大学都市のブラジル館には、その後、日本における彼女の優れた紹介者にもなっている大田泰人(現鎌倉近代美術館)が住んでいた。もちろん彼女が何度か来日したことがあるとはいえ、ぼくの人生も何度かペリアンの人生に触れあっている。
 それにこの夏は、2カ所で開催されている坂倉準三──この本の中では何度も何度も「サカ」という愛称で登場してくる──の回顧展、そして前回書いた上野の西洋美術館とルコルビュジエ展、さらにペリアンのこの自伝と、まるでルコルビュジエを中心にした20世紀の全体を見直す作業をしているかのようだ。ルコルビュジエを中心に、建築やインテリアに関わる作業のどれだけ多くの部分がぼくらの現在の生活に関わっているのかを感慨を持って考察することができそうだ。
 それにしてもこの自伝は面白い。パリの若い女性たちがチャールストンを踊り、ルイ・アームストロングやジョゼフィン・ベイカーを聞き、ジャン・コクトーやマルセル・レルビエの映画に夢中になっていた時代、シャルロットは2冊のルコルビュジエの著作を読んで、彼と一緒に仕事にすることに決める。もちろん決めたのはペリアンの方であって、コルビュではない。何度かセーヴル街25番地の彼のアトリエに通い詰めた後、ようやく無給の所員になることを許され、ピエール・ジャンヌレと共に、ルコルビュジエには欠かせぬ存在になる。セーヴル街のアトリエには、その後、前川国男や坂倉準三が入所してくる。彼のアトリエに入所した最後の日本人、進来簾とは、ペリアン後期の大仕事レ・ザルクのリゾート開発を行っている。多くの人々との出会い、数々の華美の記憶──東京、山形、ブラジリア、マルセイユ、メリベル、そしてパリ。至る所に箴言が散りばめられ、その長い人生の中から引き出された素晴らしい言葉の多くに出会う。圧巻は、ドイツ軍が迫るパリからマルセイユに逃れ、白山丸に乗り込んで東京に向かい、日本での任務を終え、パリに戻ろうとすると日本軍が真珠湾を攻撃し、ヴェトナムに足止めされる。ホーチミンで未来の夫に出会い、その地で妊娠し……。人々の不条理な死や、数々の別れや喧嘩や和解を繰り返しながらも、次々に新たな仕事を生み出していく彼女の姿勢には感動する。
 彼女の仕事は、アーティストのような孤独な側面もあるけれども、工業製品を作るという意味において多くの人々との共同作業であり、それが製品である限り、資本主義の論理とも向き合わざるを得ない。常に積極的に解法を求め続ける彼女の姿勢は、誰の人生にも影響を与えるだろう。Art de vivre──生きる術──という言葉に何度も出くわす。それは何も彼女が生み出したLC3やキッチンセットや収納ばかりを指すのではない。まさにその言葉の真の意味において「生きる術」なのである。