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April 19, 2010

『死に至る愛』アラン・レネ
結城秀勇

[ cinema ]

 タイトルには『死に至る愛』の名を挙げたが、この文章は東京日仏学院とユーロスペースの特集「アラン・レネ全作上映」を終えて、思いついたことをとりとめもなく書き記す。この作品と前年の『人生は小説なり』は、レネの複雑怪奇なフィルモグラフィに道筋を与える手がかりとなるような気がしている(あるいは『アメリカの叔父さん』を含んだジャン・グリュオーとの3本の共同作だろうか)のだが、考えがまとまっていない。
 この作品の最初から最後まで人物を繰り返し上昇下降させる、石造り風の螺旋階段をはじめとした奇妙なディテールを持ったこの家のセットはまず注目に値する。二階にふたつ、一階に大きくひとつ、窓(兼出入口)を持ったこの建物。どう見ても人の顔を模したように見える。それが『スチレンの唄』や『彫刻もまた死す』などのドキュメンタリーにもうかがえる、擬人化であると同時に擬物化でもあるような「顔を模したもの」への彼の興味を想起させる。あるいは、年老いた主の声が家の隅々まで空間を支配する『プロビデンス』同様、『死に至る愛』でもまた家はひとりの登場人物だと言えるのかもしれない。階段が、二階の窓が、跪き懇願する姿勢が、繰り返し繰り返し俯瞰と仰角の切り返しを作り上げていく。それはこの作品の主題である信仰の問題に大きく関わる。ふたつのカップルと一軒の家という要素も『プロビデンス』と同じ形式だが、この2×2+αという図式は他の彼の作品でも散見できるものである。その究極の形態が『スモーキング』『ノースモーキング』だろう。アゼマとアルディティが作り上げる登場人物たちは、どちらの作品でも基本的にふたつのカップルとその周辺という感じで展開し、それが中心をずらしながら重複していく。彼らが髪型や服装や体型を変えて演じれば演じるほど、そこにはアゼマとアルディティしかいないということが逆説的に明らかになる。この双子のような作品は、単純に分岐して増殖していく可能世界を描いているのではない。むしろ様々なヴァリエーションを描ききったところで、結局の所アゼマとアルディティの関係がどうなったのか、ということでしかないのだ。『スモーキング』の曇天と広がる地平線、『ノースモーキング』の断崖絶壁、といった書き割りが照明の関係なのかまるで本物の風景のように見える瞬間があって驚く。それらはデジタルで加工あるいは一から作られた風景の自然な(?)本物らしさとはまったく真逆に、明らかに偽物にも関わらずなんだか本物めいて見える。おそらくアゼマとアルディティの演技もそのようなものだ。そこにはふたりしかいない。だからこそ、大勢の人々がいる。
 『死に至る愛』に話を戻す。シークエンスの隙間に入り込む、というよりも無理矢理に間隙を押し開くかのように現れる雪のイメージは直接的に『6つの心』を連想させる他に、レネの作品における時間を考えざるを得なくさせる。このテーマについて触れるにはどう考えてもここではスペースが足りない。しかし「人類の起源」を目指す考古学者たるアルディティと、「人類の未来」のために新種を開発する植物学者たるアゼマの間に置かれた、そっけないほどの小さな死が気の遠くなるような時間に考えを及ばせるのだということは述べておきたい。おそらく時間に関しては彼の究極の作品たる『ジュテーム、ジュテーム』での、振幅と遡行によって、ありもしない現在からありもしない過去が「鉛筆ではなく消しゴムによって」作られていくのとは別種の方法で、主題の背後に回り込むかのようにこの作品には時間の問題がへばりついている。おそらく登場人物の誰も部分的にすら把握することの困難な類の時間が。
 そして最後に、この作品がジェラール・ルボヴィッシの死の年に作られた彼の出資による映画だということも、これについてなにか書き留めておかねばならないと思った理由でもあった。



「フランス映画祭2010関連企画 アラン・レネ全作上映」