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June 12, 2010

『やくたたず』三宅唱
松井宏

[ cinema , cinema ]

 冬。北海道。卒業間近の高校生3人。ガンちゃん、タニくん、テツヲ。彼らは、先輩イタミが働く会社で研修めいたバイトをはじめる。先輩の他に社長と、その愛人だか妻だか、はたまだ何だかよくわからないような女性社員キョウコからなる、小さな会社。また社長には息子ジローちゃんがいるが、彼は刑事だ。
 そんな三宅唱監督の処女長編『やくたたず』を見ると、何はともあれ役者たちの顔と振る舞いが、とても良いのだ。何を阿呆のような感想を、と思われるやもしれぬが、これはこと日本映画においては決定的な美点である。いや、たとえ演技経験に乏しくとも、その顔とからだを持った役者たちを選び、彼らと同じ時間をともに生きる決意し、その顔を顔として仕立て上げる監督というのは、こと日本映画においては決定的な信をわたしたちに与えてくれる。
 実際、この作品は役者たちとの関係抜きには語りえない。だから、役者たちがとっても生き生きしている、と言うだけでも十分ではあろう。けれど、やはりこの作品はもっともっと大きな射程を持っているのだった。
『やくたたず』がかかずらうのは共同体という問題だ。高校生を受け入れた小さな会社は、ある共同体として姿を現す。それはもちろん、撮影現場に関わる人々からなる共同体ともダブる。もっと言うならば、役者たちとの関係そのものが、共同体という問題とダブる。そしてそのとき問題となるのは、共同体の内容(=どんな共同体か?)ではない。共同体の根本要素である「枠」こそが、問題となるのだ。つまり、どうやって役者たちとともに共同体をつくりえるのか?である。
 もちろん目指す共同体は、確固たる父の君臨するそれではない。たしかに会社にはひとり、かなり年の離れた社長がいるが、まったくもって父の機能は果たしていない。キョウコとイタミは隠れて良い仲だし、そもそも彼女の幼い子供サキちゃんが誰の子なのか、監督は意図的にわからないようにしている。実際に腹を痛めて子を産む母とは違って、父とは根本的には、自分が本当にその子の父であるかどうかわからないし、父ではない可能性と不安からけっして逃れられないというストリンドベリ的真実。誰もが父であるかもしれない、と同時に誰もが父でないかもしれない。と、そんな恐ろしくも愉快なユーモアこそが、確固たる父の代わりにこの共同体を枠取っている。
 はたしてそのとき、監督にとって重要なのは(三宅監督はキャメラも担当している)、役者かキャメラかという問題設定ではなく、やはり、それらを包み込む共同体となる。ではそのとき父に相当する存在とは監督なのか? おそらくそうだが、そうではない。というのも『やくたたず』は、まさにフレームこそを文字通り「枠」ととらえ、そこでこそ共同体をめぐってのせめぎ合いを展開するのだ。ショットではなくフレーム。すなわちショットの連鎖によって物語を巧く進行させるでもなく、逆にひとつひとつのショットを自意識過剰に心血注いでつくり込むのでもなく、ショットを規定するフレームそのものをもっと緩やかに、軽やかに、柔らかくできないかと思考すること、それがこの作品の目指すところではないか。だからこそ三宅監督は、ふっと映画的フレームギャグを真面目に取り入れ(イタミさんが脚立に乗っているショット。それを見上げているテツヲのショット。するとそこへ、突然背後からフレームインしてその肩を叩くイタミさん!)、あるいは、役者たちがフレームアウトしたりインしても、彼らの動きに合わせるというよりは、それを許容すると言う方が正しいような、そんなフレームをじっと選択してみせる。
                  *****
 なにはともあれ『やくたたず』が説話の遂行というレベルで劣っているのはたしかだ。つまりショットによっていかに物語を盛り上げるか、という点において。たとえば。ある出来事でキレたイタミさんがドつきはじめるとき、三宅監督は遠くから長廻しで彼らの悶着を最後までとらえつづける。そのとき観客は、そこで何が起こっているのかはわかれど、彼らの感情の盛り上がりなり、出来事の重要度なりを(実際その出来事は物語上かなり重要なのだが)きっちりと把握することができないだろう。だがもしも、である。もしも、キャメラが彼らの間に割って入り、イタミさんの表情なり、転がるからだなりをショットで連鎖させていれば、上のことを観客も把握できたのではないか......、と、まったく失礼千万ながらそんなことも想像できてしまう。が、だがしかし、やはり『やくたたず』のキャメラは、あれでよかったのだと思う。なぜならそこには、まさしく彼らの出入りによって軽やかに、柔らかくなるフレームがあり、そしてユーモアによってそのフレームをじっと維持しつづける三宅監督の思考が、はっきりと姿かたちを取っているからだ。
 登場人物全員を閉じ込めるためよりも、彼らが口々に文句を言いながらバラバラとそこから出ていけるためのフレーム。まるでそこから出ること、あるいは各々の孤独を知ることこそが逆説的に共同体を支えるような、そんな共同体。あるいは、やがて若者たちはフレームそのものを目撃するだろう。それは引いては寄せる海波と砂浜のように、境界そのものがせめぎ合っているような場所だ。あるいは、海に呑込まれて消え行くフレームの可能性......。そこで若者たちは、孤独者たちの共同体を生きはじめるやもしれない。
 もちろん「フレームのない映画」など、おそらく存在しない。と同じく「枠のない共同体」など、おそらく存在しない。役者たちに自由にやらせとけばいいじゃん、フレームもクソもねえ、なんて言語道断、『やくたたず』はそんなところから遠く離れている。脚本、撮影、編集と、すべてをひとりで行った三宅監督は、コントロールによって生まれる軽やかな共同体を目指し、じっくりフレームに向き合いながらその成分を大胆に組み替えようと試みる。とにかくその矛盾とせめぎ合いのなかにこそ『やくたたず』はあると言ったらよいか。
 この作品は即効性をもった癒しやら安心感やらの効果があるわけじゃない。その意味ではやっぱり「やくたたず」かもしれない。けれど重要なのは短期決戦じゃない。長期戦だ。馬鹿馬鹿しさのまっただ中で犬死にしないための方法序説、をじっくり探ることだ。と、そんなことを最後にふっと考えてしまったのだった。

6月12日(土)より、池袋シネマ・ロサにて「CO2上映展in Tokyo」開幕。『やくたたず』は12日(土)21:00より上映!