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June 12, 2010

『やくたたず』三宅唱
渡辺進也

[ cinema , cinema ]

 ざらついたモノクロの画面の中、背後にうっすらと雪がとけ残るあぜ道を、学生服を着た3人の少年が歩いていく。言葉を交わすわけでもなく、並んで歩くわけでもなく、思い思いの表情で歩いていく。しかし、それまで3人に寄り添うようにあった画面は、少しずつ彼らを置いてけぼりするようにスピードを持って離れていく。彼らはそれに遅れをとるまいと早足で、そして全力で走り始めるが、画面は彼らを置いてけぼりにする。画面に追いつくのを止め、立ち止まった彼らの上に、あざ笑うかのように映画のタイトルが姿を表す。「やくただず」と。
 すでに、その短編映画において評価の高い三宅唱の初の長編作品は主人公たちに「やくただず」の証印を与えることから始まる。彼らが何かをしたからでもなく何かができないからそうなのでもなく、そこに肯定的にも否定的な意味を加えることもなく、あたかもそれが当然であるかのように、ただやくただずなのだと宣言することから映画を始めるのである。それは、彼らの若さゆえの有り余る体力をしても解決ができないものであり、そうであることが予め決定付けられてしまったかのようでもある。
 セキュリティ会社で仕事を始める少年たちは手伝いを始めるけれども、そこで彼らが労働で何かを成し遂げることはない。毎日定時に現れ、日が暮れるまで仕事場にいるが、彼らはとりあえず脚立など荷物を運び、会社の前の道路に積もった雪をよけ、喫茶店での会計や車のエンジンをかけることなどしか仕事を与えられない。彼らがそこに労働を見出せないのは単純にこのセキュリティ会社に仕事がないからでもある。そして、そんな状況に大人たちもどうすることもできない。
 だから彼らはただ「やくたたず」なのではない。そもそも彼らには「やく」そのものがないのだ。彼は何かのやくにたちたいと考える。だが、やくなんてものがそもそも存在しないのだ。最後、彼らは何かのやくにたとうと自分たちで行動を起こすがそれは決して会社の役にたつわけでもなければ、ましてや社会にとってやくにたつわけでもない。ただ自分たちのやったことに落とし前をつけるために動くだけなのだ。
 この映画は労働についての映画を装いながら、実は労働以前の問題を取り扱っている。最初に与えられた証印は彼らの能力や行動とは関係なく付けられる。なんて希望のないと思われるかもしれないが、それこそが今の僕らの状況に相応しいのかもしれない。そして、手持ちのキャメラで捉えた、どこまでも彼らの近くにあり続けるその視線はとてもやさしい。


6月12日(土)より、池袋シネマ・ロサにて「CO2上映展in Tokyo」開幕。『やくたたず』は12日(土)21:00より上映!