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August 14, 2010

『ソルト』フィリップ・ノイス
結城秀勇

[ architecture , cinema ]

 東西冷戦の落とし子として、数十年間という時間をかけてアメリカ人になりすましCIAに潜入したロシア人女スパイ。そのシンプルかつ典型的な設定にもかかわらず『ソルト』のストーリーには、どこかタガの外れた部分がある。ロシア人大統領を暗殺し、その報復に見せかけてアメリカの大統領を殺し、中東を巻き込んで世界規模の核戦争を引き起こす、などというどこの国家の利益にもならない陰謀自体がそうなのだが、それを食い止めようとする者もそれを遂行しようとする者も双方ともに、目先のことに気を取られすぎでまったく非効率的な行動ばかりをしているようにしか見えない。などと書くと、まったくつまらない映画のようだが、それら焦点のいまいち合わない疑念と思惑の渦中で、ただひとりアンジェリーナ・ジョリーだけが、全体の混乱振りとはうらはらに局所的に効率的な運動をただただ繰り広げていくさまを見ているのはまったく退屈しなかった。
 予告編から予想される、彼女は本当に二重スパイなのか?というサスペンスはさしてこの映画の重要なポイントではない。アンジェリーナ・ジョリーは、アイデンティティ・クライシスとパラノイアにはまり込んでいくレオナルド・ディカプリオ(『シャッターアイランド』『インセプション』)でもなければ、どこかに欠陥を抱えたサイボーグのようなトム・クルーズ(『コラテラル』『ナイト&デイ』)でもない。この映画の冒頭、北朝鮮に拉致されたアンジーは”I'm not spy!”と叫ぶが、その言葉の真に迫った感じとは裏腹に、その意味することろが嘘であることは間をおかずにわかる。しかしそれは彼女が目的遂行のためなら嘘でも平気でつく厚顔無恥なプロフェッショナルだということを示すのではない。彼女にとって意味を持つのはそれが否定の叫びであることだ。ハーマン・メルヴィル「代書人バートルビー」の”I’d prefer not to”のごとく、彼女はあらゆるイデオロギーを穏やかに否定しながら、結果的に自分だけのミッションを遂行していく。『チェンジリング』で見せた演技が既にそうであったように、誰も彼女を打ち負かすことは出来ず、誰も彼女を飼い慣らすことは出来ない。現在、「不屈」を体現するハリウッド俳優はアンジェリーナ・ジョリーをおいて他にない。

全国ロードショー中