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October 27, 2010

『刑事ベラミー』クロード・シャブロル+『ゲスト』ホセ・ルイス・ゲリン@東京国際映画祭
結城秀勇

[ architecture , cinema ]

『刑事ベラミー』クロード・シャブロル。墓地とそこに流れる口笛。カメラがゆっくりとパンし始め、それがクレーンを使ったパンに切り替わって左回りにぐるりぐるりとこうべを巡らせていくと海へ。しかし最終的にカメラが指し示すのは美しい海の姿の方ではなくて、その縁の掛けしたに落ちた丸焦げの車と、そのすぐそばに転がる丸焦げの死体である。
この事件の発端を示すショットを映した後すぐに、そこから30km離れたベラミー警視の家(というか奥さんの家)のカットに飛んでも良さそうなものだが、シャブロルはそうしない。事件現場の崖から警視の家があるニームにたどり着く行程をじっくりとは認識できないような細切れのショットできちんと映す。いや、きちんとという表現が正しいのかはわからない。決してリアリズムではない方法で情報が散逸する。散逸しつつも途切れず、なにか曖昧な方向を持ったひとつの流れを形成する。
ふとした瞬間にきわめて官能的なマリー・ビュネルの振る舞い、思考も感情も不明瞭でまったく感情移入できないジャック・ガンブラン、ジョルジュ・ブラッサンスの歌でミュージカルと化す法廷、探偵小説の殺人事件のようにはつじつまが合わないものとして突如訪れる死。それらが為す流れに、散漫な意識で付き添うのである。
それにしても、例えばシムノンのメグレもののような、膨大な量の探偵小説シリーズ末期の作品を原作としたといっても不思議ではないこの映画が、オリジナルの企画なのだから驚きだ。そして現代にそんなものを作れてしまう映画監督は明らかにシャブロルしかいなかったろう。
『ゲスト』ホセ・ルイス・ゲリン。『シルビアのいる街で』で各地の映画祭を巡り、年間のほとんどを旅先で費やした期間の記録である。監督自身の携えた小さなカメラで捉えられたモノクロの映像が、時系列順につながれている。正直なことを言えば、あまりに魅力的な被写体と出会いながらも、映画祭のスケジュールでそこを通り過ぎてしまわなければならないというのは少しもったいないように感じた。もしかしたら『シルビアのいる街で』に対する『シルビアの街の写真』のように、この作品からまた違った視線を持ったもうひとつの作品が生まれるのかもしれない。
作品中の監督のノートに記されたメモではないが、ゲリンの映画の魅力はロケーションとポートレイトのレイヤーにある。冒頭のヴェネチアのシーンこそその重なりが単調なのではないかと思ったが、コロンビアの癌に冒された詩人が「恋の詩なんていまやありふれている」とつぶやく背後で、待ち合わせのカップルがキスをするというできすぎた偶然ににやりとする。ペルーの一家やサマリアの少年たちのような大好きな肖像がいくつもこの作品にはあるのだが、なんといってもキューバのスラムのシーンがすごい。1万を超える部屋数を持つという巨大な建物の一角で繰り広げられる、酩酊した大声での論争と愛についての詩と雷鳴のレイヤーはまさに見事としか言いようがなく、この場面のためだけでも見るべき価値がある作品である。
ただひとつだけ疑問を呈すなら、この作品は監督自身である「ゲスト」ではなくて、「ホスト(ホステス)たち」あるいは「歓待者たち」というタイトルを持つべきではなかったのか?

東京国際映画祭にて上映