« previous | メイン | next »

October 28, 2010

『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』瀬田なつき+『神々と男たち』グザヴィエ・ボーヴォワ@東京国際映画祭
結城秀勇

[ DVD , cinema ]

『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』瀬田なつき。東京湾岸の光景、横たわる少女と彼女の生足、スクリーンのこちら側だけに向かって放たれる「嘘だけど」という台詞、宇宙の姿を映し出すスクリーンプロセス……。瀬田なつきの商業映画第一作はどこをどう切っても瀬田印が満載だ。
陰惨な過去の事件ーーそうではなかったこともあり得たのかもしれない過去ーーによってだけ結びつくひと組の少年少女。過去はなぜかいま唐突に現在を強襲する。過去を失うことでかろうじて自我を保っている少女を守るために、少年は時を越えて姿を現す。嘘をつくために。放浪の旅から帰ってきたカウボーイのように、あるいはやっかいな依頼を受けた探偵のように、「嘘だけど」というシニカルな台詞を繰り返し吐く染谷将太は、少女と過酷な現実との緩衝壁となる。しかし彼の探偵っぷりはハードボイルドのそれではなく(ハードボイルドであるために必要な感傷が決定的に不在だ)、むしろ同じ探偵でも『探偵学入門』のキートンのように無表情のままスクリーンの向こう側とこちら側を行き来するのだ。
そうやって意図的に平面性と軽さを与えられた瀬田作品における「現在」、そこで訪れる「奇跡」とは、過去をこうもあり得たたかたちに描き換えることではない。かつては嘘だったものが本当になる瞬間を待ち構え、捉えることである。それは歴史を無視することではなく、綱渡りのように敏感に歴史と接することである。だからこそ少年少女たちは、もう一度、同じ出会いを繰り返す。不安定な歴史の先端でバランスを取っている様が、まるでぷかぷかと空中浮遊を行っているかのように見えてしまうこと、それが瀬田の才能であることは間違いない。
上映後の質疑応答で、音楽映画も撮ってみたいと語っていた彼女だが、商業映画(多くの場合、音楽の使用については制約についての話を耳にする方が多いのだが)にあってこれまでより一層魅惑的に音楽を用いている様をこの作品で見ると、あながちただの思いつきではないという気がしてしまう。染谷の鼻歌にはじまり、全編にわたって流れる「ルージュの伝言」(とりわけ、あの携帯電話の着信音風のミックスが素晴らしい)もそうだし、終盤の染谷将太のヴォイスオーバーが幾重にもつみ重なっていくところなど、まるでラップのようでもあった。とはいえ次回作に期待を膨らますのはまだ気が早いだろう。「それはまた別の話」だ。
『神々と男たち』グザヴィエ・ボーヴォワ。本国フランスでは興行的に大成功しているとのことだが、なるほどそれもうなずける題材である。だがそんなことはおいておいても見事な作品だ。
作品の大部分で僧院における日常的な儀式が映し出される。その中で祈りの言葉が、聖歌に変わる瞬間が度々あり、その都度極めて映画的だと思った。僧院の日常生活はナチュラルにミュージカルになりうると。それだけではなく音楽の使用は非常に重要で、飛来するヘリコプターのプロペラ音の中で肩を組み歌われる聖歌や、あるいは晩餐の際に流れる「白鳥の湖」の荘厳さはほとんど理由もなく観客を圧倒する。同時にこの作品は強靱な顔の映画でもあり、それまで危険地帯を去ることを強く主張していたオリヴィエ・ラブルダンが、最終的にそこに留まるという意志を伝える瞬間の、なかば空虚と呼んでさえいいようなあの表情にとりわけ胸を打たれた。

東京国際映画祭にて上映