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November 26, 2010

『The Depths』濱口竜介
結城秀勇

[ cinema ]

 濱口作品のトレードマークとなりつつあるモノレールの車窓を通じて、デジタルカメラが風景を切り取る。そのフレームはシネマスコープであるこの作品自体のフレームより小さい。ふたつのフレームに挟まれた中間領域はグレーに沈み、見られると同時に見なかったもの、カメラによって切り取られたと同時に切り取られなかったものにされる。あえていうまでもないが、濱口竜介の映画における登場人物の「深さ」とは現実感や奥行きの問題ではなくて、こうした同一平面で起こる、見たか見なかったか、撮ったのか撮ってないのかという一見堂々巡り風の弁証法を通じて生じる。
 チャペルの前で久しぶりに再開した友人に向かってカメラマンは韓国語で話しかけ、新郎は新婦に日本語で話しかけ、新婦はカメラマンに英語で話しかける。スリリングな対話のスペクタクルといってもいい瞬間だが、それは差異を増幅する結果に至るのではなく、むしろ同一性を強化する方向へと映画を連れて行く。女は女を愛し、男は男を愛すようになる。
 同じものが同じものを呼ぶ連鎖反応の中でも、冒頭に記したふたつのフレームは重なり合う。それは荻野洋一が指摘するような、韓国俳優の大きさと日本俳優の小ささが同時に並び立つためのリフレームかもしれない。フィルムを消費する正しいタイミングを待つことが出来るというキム・ミンジュンの極めて映画的な振る舞いと、犯罪露呈をいたずらに先延ばしにして目の前の獲物に食らいつくという石田法嗣の陳腐なドラマじみた振る舞いとの対比。映画以外のなにものでもないシネスコサイズと、簡単にデータを消去できるデジカメのモニターのフレーム。しかしもちろん、大きくて映画的な方が良くて、小さくて陳腐なものがダメなのではないのだ。キム・ミンジュン演じるカメラマンは、「動物的な反応をするだけ」の男娼からモデルとしての輝きを、人間としての尊厳を、引き出そうとする。それは私が『PASSION』や『永遠に君を愛す』を見た時に、「いままさにここで起こっている」と感じたことだった。


 余談だが、キム・ミンジュンは本当に魅力的であり、個人的には(非常に失礼なことだが)濱口竜介の映画の登場人物の中で初めて友達だったらいいと思えるような人物だった。だからこそかえって、彼がただの「韓流スター」にしか見えないような別ヴァージョン、彼が石田法嗣や村上淳と同じフレームの中でどろどろになる「撮られたが撮られなかった」別のヴァージョンが存在したのではないかと妄想を膨らます。


第11回東京フィルメックスにて上映