« previous | メイン | next »

June 25, 2011

《再録》宇宙人さん、こんにちは
渡辺進也

[ cinema ]

(2011年6月25日発行「nobody issue35」所収、p.52-56)

東京=公園

tokyo-park_sub01.jpg これを書いている今日、ずいぶんと都内を移動した。
 まず海外の映画雑誌のコピーを取る必要があったので、最初に京橋のフィルムセンターに行ったけれども休館日だった。それで、銀座線と東西線を乗り継いで早稲田の演劇博物館まで。そのあと、今度は日本語の文献を調べたかったので、東西線と有楽町線を乗り継いで永田町の国会図書館まで行くも一番のお目当てだった雑誌が作業中となっていて閲覧できなかった。そこで、半蔵門線で神保町まで移動して古本屋でやっと手に入れた。
京橋→早稲田→永田町→神保町。この移動はそう度々あることではないけれど、かといってそうそう特別なわけではなく、都内を1日で何カ所か回ろうとすると自然とこれくらいの移動はしてしまう。しかも、ずいぶんと自分のなかでは移動しているつもりでも地図上で見るとほんの数キロのところを移動しているだけだ。今日の自分の行動を思うと、まるで何か罠にかけられたようにその外側には抜けられず同じようなところをぐるぐると回っているような気がしてしまう。ロラン・バルトの言葉を思い出すでもなく空虚な中心には決して近づけず、かといって出発点と目的地を直線で結ぶこともできず。他の都市がどうなのかはわからないけれど、ぐるぐるさまよい動く、それこそが東京なんだよなと僕などは思ってしまう。
 東京は北を荒川に、東を江戸川に、南を多摩川にと3つの川に囲まれている。それぞれの川にはいくつもの橋が架かっていて、それを越えることはいくらでも可能だけれども、どこか周囲から閉ざされているような形にはなっている。また、手に入らないものはないんじゃないかというくらいに物はあふれ、レジャー施設に事欠くこともなく、海があり山があり、自然あふれる公園がありといろんなものが充足している。自然という外的な要因から物量という内的な要因まで、まるで東京は僕らをその内部に閉じ込めてしまおうかというごとくである。それでも、多くの人間がそんなことなど考えることもなくこの場所で生活している。
 『東京公園』で描かれる東京はそんな僕らが生活する東京である。主人公の光司はいくつもの東京の公園へと出かけていく母子を写真に収めて送るようにある男から依頼される。母子が公園を訪れる理由もその写真を送ってほしいと依頼する男の理由もわからないままにその依頼を受ける。主人公もまた東京のどこか住宅街にある一軒家に友人のヒロと住んでいて、両親は大島で悠々自適な生活をしていて、血のつながらない姉・美咲は東京で働き、生活している。幼馴染で同居人の元彼女である富永も東京に住み、主人公の家を頻繁に訪れる。一度として出てこない彼の通う大学もまた都内のどこかにあるのだろうし、彼がバイトするバーもまた東京にあるのだと思う。生活する場所、お金を稼ぐ場所、消費する場所。すべてが東京という都市のなかで行われている。
 東京のなかでも特に舞台となっているのは、代々木公園や台場の潮風公園や石神井公園や場所はわからないが彼らが具体的に生活する場所である。それは銀座でも、東雲でも、渋谷でも、青山でもなく、そういったある種外側からみたときにイメージされる東京ではない。むしろ、僕らが生活している東京というような気がする。たとえば、代々木公園が映れば僕らはそこがどんな場所かとわかるし、バイト先のマスターのパーティから姉弟が帰るときに映る電車を見ればあれはあそこあたりだろうと当たりをつけることもできる。しかし、それは僕が東京に何年も住んでいるからこそわかる東京の姿であって、仮に東京を数回しか訪れたことがない人や外国人が見ればそこには馴染みのない東京が映っているように感じるのではなかろうか。いつからかまるでそれが東京を象徴しているかのように度々と映画のなかに現れる臨海部の高層マンションの姿が見られるわけではない。あるいは都心部のビル群が見られるわけでもない。観光地化した浅草や原宿が見られるわけでもない。でも、それこそが僕らが生活し、遊び、ときにうんざりしながらも決して離れようとはしない東京の姿である。映画のなかでは公園などいくつか具体的な場所が描かれてはいるけれども、それは僕らが生活する東京の一部の姿であり、全体を通してみると、むしろある場所というよりは東京そのものこそが描かれているように思える。
 バーのマスターの亡くなった妻をいとおしむパーティがマンションの屋上で行われている場面がある。ゲイのマスターが派手に女装し、ピアノによる軽快な音楽が鳴らされ、参加者は思い思いにアルコールを手に持ちながら談笑している。そこにいた和服姿の紳士が光司におもむろに話しかける。望遠鏡をのぞいてごらんと。光司は「じっと見ていると向こうからも見返されているような気がしてきますね」と答える。そして、和服姿の紳士は光司に、地球のことを何も知らない宇宙人に東京のことを説明するとしたらどう説明するかと尋ねる。答えあぐねる光司に和服姿の紳士は次のように答える。

僕ならこう答える。東京の中心に巨大な公園がある。東京はその公園を取りまくさらに巨大な公園だ。憩い、騒ぎ、誰かと誰かが出会ったりもする、僕たちのための公園、それが東京だ。

 なかなか言いえて妙である。東京こそ公園なのだと。
 そして、また今日の話に戻るけれども、神保町からいざ帰ろうと思ったとき、自分が北の丸公園の近くにいるということに気がついた。ここは映画のなかにも登場する公園のひとつである。せっかく近くにいるのだからと九段会館を横目に坂を上がり公園に入る。少し歩くとそこには日本武道館があり、その先には何と言うのか知らないけど巨木が転々と立ち並ぶ広場がある。そこではランニングをする人がいて、犬と散歩する人がいて、所在なさげに川を覗き込む女の子がいて、ばかみたいに騒ぐ男子学生の一団がいる。ベンチには寝ているおじさんがいて、自動販売機で買ったコーヒーを飲みながらボーと佇むサラリーマンに、身を寄せ合って語り合う壮年の夫婦がいる。日本武道館のほうからは翌日にコンサートを開くミュージシャンの歌声が漏れ聞こえ、奥まったベンチにはこそこそといちゃつく高校生の男女がいて、木々にレンズを向けるカメラを構えた人までいる。
 たぶんそれは本当にありふれた当たり前の光景なんだと思う。公園には静かな時間が流れているようで、人々が思い思いのことをしていて、気持ちよさそうにしている。川と緑に囲まれたその一角はどこか居心地がよく、抜け出すのが惜しくなってくる。ぶらぶらと同じような景色のなかを歩く。でも、これってまるで東京という都市にいるみたいじゃないか。都市にいたって、公園にいたって僕らは、憩い、騒ぎ、人と出会ったりもする。東京って公園なんだなと改めて思うのだ。

東京を見返す

 原作から映画化するにあたって、いくつかの変更点がある。光司の両親が住む場所が北海道から東京に変わり、結果映画のすべては東京のなかで行われることになる。母子が日々訪れ、主人公が写真を撮る公園の行き方にゲームのような規則性が生まれる。そうすることによって、焦点は東京そのものに向かい、さらには僕らは東京を俯瞰して見ることになる。東京の地図を目の前に広げてみるような俯瞰、まるで鳥にでもなったような気分で空高く舞い上がっていくような俯瞰。それは、普段生活しているなかでは意識されない自分たちが天高く真上から見られているような視点だ。俯瞰の視点が意識されるとき、まるで彼らは(当然、同じく東京で生活する僕らも)そのなかをただただ蠢き合っているだけの存在なんじゃないかというように思える。
『東京公園』には、大切なものを亡くしてしまった人物が複数現れる。妻を亡くしてしまったバーのマスター。恋人を亡くしてしまった光司の幼馴染の富永。そして、小学生のときにカメラマンであった母親を亡くしてしまった光司。
 ある者はその傷から立ち直り、またある者はいまだその傷を引きずり、またある者は傷が癒えた気でいて亡くなったその存在をまだどこかで追い求めていたりする。富永などはいつ死んだ恋人と出会ってもいいようにホラー映画ばかりを見ている。テレビの向こうでゾンビたち=Living Deadはふらふらと工場をさまよい、一方それを見ているこちらもまたまるでゾンビのように東京のなかを蠢いているだけだ。『東京公園』で見られるゾンビ(幽霊?)は建物のなかから出られないということになっている。それって、東京のなかを蠢くように生活する人々となんだか一緒みたいじゃないか。
 とはいえ、ゾンビのように何も考えず、人を襲うばかりが彼らの(僕らの)行動ではない。彼らには悩みがあり、先行き不安な未来があり、けじめをつけなければならない問題がある。
『東京公園』では3つの関係性の変容が行われる。光司と姉・美咲の関係。初島とその妻との関係。そして、光司と幼馴染の富永の関係である。それぞれ、姉弟でありながら恋愛関係を築くことができないもどかしい思い、妻の行動が信じられなくて浮気を疑ってしまう不安、いまはいなくなった親友の元彼女であるゆえの微妙な関係とけじめをつけなければならない理由がある。そして、そのけじめをつける場面は3つともほぼ同じパターンをもって行われる。簡単に説明すると以下のようになる。
 光司と美咲の場面。カメラを向けまっすぐに見つめてくる光司に対して、美咲はあたかもその視線を避けるかのように光司の前から逃げ、ソファにうずくまる。彼女を見下ろすかのようにシャッターを切る光司はいつからかそれを止め、姉は立ち尽くす弟を見上げながら手をつかむ。光司はソファにいる彼女の横に座りフレーム・インしてくる。けじめがついた後に、美咲は階段を階上へと上がっていく。
 初島と妻の場面。光司に妻の行動を説明され、自信を取り戻した初島は妻の元へと走りよる。そこで、この夫婦は初めてひとつの画面に収まることになる。夫は光司が妻を撮影していたカメラで、今度は自分が妻を写真に撮る。そして、まなざしを返すかのように妻も初島を写真に撮る。笑いあうふたりの姿を切り返しの画面で捉えると、次のカットでは青空が映っている。
 光司と富永の場面。荷物一式を持って光司の家に住まわせてくれと突然上がりこむ富永。茶の間でへたり込み、弱音を吐く富永の後ろで立ち尽くしながら光司は話を聞いている。それまで足だけしか映っていなかった光司は彼女の後ろに座り込み、背中に手を置く。そのとき、光司の手の上に天上から涙が降ってくる。
けじめをつけるとき、それまでソファに座っている女、その横で立っている男というように眼に見えて高さのコントラストが画面に表れている。それが、けじめをつけるときになると、ほとんどのカットで固定されたカメラのフレームのなかに男のほうが降りてきて、ひとつの画面に収まる。ふたりの顔の高さが一緒になっている。並ぶこと。そして、その後に上を意識させるものが画面に映される。ここでもまた俯瞰の要素が入ってくるのである。
ひとつのフレームのなかでいまふたりの間で起こっていることを明らかにすること。フレームのなかへの出し入れによってその関係性の変化を表すこと。そして、地上レベルでの関係性の変容を見守るように天上の世界からの視線が生まれること。
 たとえばそのような形でつくられている映画を僕らはカール・テオドール・ドライヤーの映画で知っている。ドライヤーの多くの映画は夫婦の諍いをソファに座る妻とその横に立つ夫という目に見える高さによって表す。その後和解した夫婦は並んでソファに座る。そして、天高く位置する鐘が鳴っているさまが映される。
しかし、これがドライヤーの映画の形を模倣しているということを言いたいわけではない。ドライヤーの映画が宗教的な意味を持ち、神の視点というものが挿入されているのだとすれば、『東京公園』にあるその天上からの視点とは、むしろ屋上のパーティで光司が見返されているような気がすると話し、和服姿の紳士の口からふと漏れた宇宙人、その視点なのではあるまいか。
 度々俯瞰の視点が映画に導入されること。そして、1度目の関係性の変容の前に光司とヒロの間で会話がされるように(ヒロ「決着をつけるってわけか。お姉さんと」光司「決着とかそんな大げさなもんじゃないよ。ケジメっていうかさ」)、それは決着をつけるというほど大げさなものではなくて、けじめをつけるということなのだ。
だとすれば、3つの出来事ももちろん彼らからしたら大した悩みだと思うけど、宇宙から見たらもしかしたらちっぽけな悩みのように見えるかもしれない。最後に律儀に天井への意識を描く3つの出来事は、まるで宇宙人に1回ずつ自分たちの行動の結果を報告し、またやさしく見守り返されているようでもある。宇宙人が空高くからそうした僕らの動向を眺めている。そちらのほうが僕にはなんだかロマンチックに思える。正体のつかめない、いるのかいないのかもわからない人物が宇宙から見守り続けていると考えただけで素敵じゃないか。
 そうすると、度々意識される俯瞰する視点は宇宙人による視点ということだろうか。『東京公園』にあるのは、東京を外側から見ることではなく、上から見ることである。外側からの視線を意識するように派手に飾り立てるのではなく、何も隠すことのできないかのように白日のもとにすべてをあるがままに映し出す。彼らが見つめあうそのまなざしは被写体をカメラのもとに曝け出される。そして、そのまなざしは彼らをやさしく包み込んでいる。

明日もまた東京で

 明日からもまた僕らは東京で生活していかなければならない。また面倒な用事を片付けなければならないし、ご飯を食べ、必要なものは手に入れなければならない。けじめをつけなければならない相手も......やっぱりいる。でも、それは本当に当たり前のことなのだ。
 『東京公園』は僕らの生活のなかの当たり前のことを当たり前のように描いている。その当たり前が当たり前であるからこそ、僕はこの映画が好きだし、登場人物たちをいつまでも見つめていたくなる。写真家の光司がこの先きっと苦労を抱えるだろうことはわかるし、それでもがんばってほしいとただ思うし、富永がいつか恋人を亡くした傷を癒し、ただただ前向きな彼女の姿を見せてくれるようになることをただ祈るばかりだし、姉の美咲が弟のためではなく自分のために生きていくことをただただ望むばかりである。というのも、その当たり前は僕たちとだって同じなのだから。
 天上高くの場所から見ている宇宙人からしたら僕らも、彼ら彼女らも大してちがったようには見えないだろうと思う。宇宙から見ればある空間のなかを蠢きあっているようにしか見えないかもしれない。それでも東京という公園のなかで、僕らはそれぞれにちっぽけな問題を抱え、日々生活していくのである。そして、『東京公園』はまるでそんなあるがままのささやかな生活を宇宙に向かってメッセージとして送っているかのようでもある。
宇宙人さん、こんにちは。僕らはこんな毎日を過ごしています。