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June 25, 2011

《再録》What a wonderful world
結城秀勇

[ cinema ]

(2011年6月25日発行「nobody issue35」所収、p.57-61)

tokyo-park_sub05.jpg 『東京公園』とはどんな映画かともし人に聞かれたら、僕はこのシーンの話から始めるだろう。
 三浦春馬演じる志田光司が初めて画面に登場する場面。カメラにレンズをセットし、一眼レフを構えた彼を真正面から捉えたカットに続いて、公園の広い中心部に向かって歩み出す彼の後ろ姿をカメラは切り取る。小さくなる彼の後ろ姿の上に重なるのは、「志田光司と申します」「写真を撮ってもいいですか?」と公園内の人々に話しかける彼の声、その問いかけに「いいですよ」「いい写真ですね」と気さくに応じてくれる人々の声、そしてそのやりとりによって生まれた写真たちだ。見ず知らずの人々が、もしかしたらもう二度と出会うこともないかもしれない相手に向かって微笑みを返し、その微笑みが光学的な機械を通じて記録される。笑顔は増殖して、やがて画面をいっぱいに覆い尽くす。
 この笑顔の存在する余地がある場所、それが決して少数派ではない世界。そこが『東京公園』の舞台なのだ、と。

 だからそのすぐ直後のシーンで、中年の男が光司を呼び止め、なにをしていると詰問する時、ひどくその男が場違いに思える。学生で写真を撮っていてこういう者です、と名刺を見せる光司に、男は「これが本当だってどうやって証明する」と難癖をつける。彼の言い分はもっともでもある。僕たちは見ず知らずの人間によって笑顔が無償奉仕されるような都市に住んではいない。彼が言うように、「ぶっそうな世の中だからな」。
 その男、初島は光司がこの映画の中で出会う唯一のいわゆる「まともな」社会人男性だ。つまり、彼こそがただひとり、ヘテロセクシャルで、仕事を持ち、妻子を持った男性である。彼が、趣味で写真を撮っている大学生に過ぎない光司に向かって投げかける言葉は、世間の荒波にもまれていない若造などにはわからない真実を含んでいるのかもしれない。とても社会的とは言えない彼の横柄な態度や無礼な振る舞いにもかかわらず。その直前にあった、他人同士が笑顔で接し合う場所の方が限られたものに過ぎず、世の中とは総じて「ぶっそう」で、表面に現れたものを疑ってかかる必要のある場所なのかもしれない。はたして直前の画面を覆い尽くしていた笑顔が再び帰ってくることになるのか、あるいは初島の示唆する疑いがその裏側から次第に世界を浸食していくのか、それはまだこの時点ではわからない。ただ初島という男が公園という場所に似つかわしくないことだけは、始まってすぐのこの場面でもよくわかる。

 そもそも公園とはなにをする場所なのだろうか。手元にある広辞苑によると、「公衆のために設けた庭園または遊園地」とある。なにを行う場所かはまったく書いていない。ただ誰のためのものかだけが記されている。この広辞苑は、後ろの見返しに「結婚記念」という言葉と宛名として両親の名前が書いてある、30年以上も昔に出版されたものだから、今日までの間にこの定義は変わっているかもしれない。でもなんの目的のためのものか、ではなく、誰のためのものかを記したこの定義はなんとなく正しい気がする。
 『東京公園』という映画の中では、家族写真を撮るという一応の目的がある光司を除けば、公園を訪れる誰もがただなんとなく目的もなくやってくる。初島の妻、百合香にしても公園を訪れること自体になにか隠された企てがあったとしても、着いた公園ではなにをするでもなく過ごす。富永や幼い光司を見かけた過去の美咲もまた、たまたま通りがかっただけだ。公園に行けば浮気をしてるんじゃないか、とか、悪いことを企んでいるんじゃないか、と考えるのは初島だけで、光司の周りの人々はそうした下衆の勘ぐりなどすることはない。だからといって、その他の人々がなんの痛みや苦しみもなく、それこそ公園の日だまりにでもいるかのようにのほほんと生きているのかと言えばそうではない。ある時は同僚にレイプされそうになり、とても身近な人が死に、家族が病に倒れる。普通に僕らがこうやって生きている以上に、この映画の登場人物たちは、死や痛みや苦しみの近くで生きている。近くで生きているというのは、慣れ親しんでぞんざいな付き合いをするということでは全然ない。近くで生きるというのはむしろ礼節をもってきちんと接することだ。働いて金を稼いだり、損得ずくで作り笑いをしたり、関係のないところから励ましてみたり、手に負えなくなると「自己責任」でよろしく願うのとは違う社会がここにある。それが公共で、『東京公園』の人々はそうした公共を生きている。
 『東京公園』にあるのは、光司の家やバイト先のバーといった室内と、屋外と言えば公園なのであって、商店やオフィスましてや国家的な機関などは映し出されることはない。この室内か公園かという二択、ある種過激で過酷でありながらも穏やかな世界は、最近読んだデヴィッド・グレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』に出てくる、マダガスカルの小さな町のことを思い出させる。地方政府が実質的に機能停止したその町で、住民はあたかもいまなお政府が存続しているかのように政府への不満を口にし、公的書類を作りに、あるいは墓堀の許可を得るために役所に行っていた。そこで使われていた公的書類に使われていたのは、公務員(であった人たちと言うべきか)が自分で買った用紙だったのだという。なんということのない日常というふりをして継続されていく無政府状態。あるいは『東京公園』の中で流れる劇中劇、『吸血ゾンビの群れ』のごとくゾンビが街中に溢れかえりながらも、ゾンビ自身ですらそのことに気が付いていないとしたらどうか。
 そうした一連の風景の中でほぼ唯一の例外とも言えるのが、光司と美咲姉弟が倒れた母親を訪ねていく大島の風景かもしれない。「見たほうがいい、東京にはない風景だぞ」という父の言葉に続いて訪れる筆島の岬は確かに言葉を拒むかのような迫力に満ちている。だがその光景が映し出される直前、父親が運転し姉弟を乗せた4WDが島の海岸沿いの道を走るのを遠目に捉えたショットの時点で、まるで世界の終わりみたいな風景だと思ってしまった。生命が感じられないとか、死が画面を覆っているとか、そういうことではない。スキーター・デイビスの「The End of the World」(というか以下の文章の流れとしては、ナンシー・シナトラの、と言うべきなのだが)のような、愛する人がすでに去ってしまったにも関わらず、世界はいつも通り続いているという光景のように思えたのだ。本当に世界の崩壊と秤にかけられるほどの重大事ではないにしろ、決定的ななにかが欠けたにもかかわらず、あらゆるものの運動は止まらない。そんな風景に思えた。
 そんなことを考えたのも、4WDが走る道が、どこか『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)の北海道の海沿いの風景を思い起こさせたからかもしれない。


 人々を自殺に駆り立てる病、レミング病が蔓延する『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の舞台はまさに世界の終わりと呼ぶに相応しい。ミズイ(浅野忠信)とアスハラ(中原昌也)は東京を脱出したミュージシャンで、洗濯機の排水用チューブや扇風機などを利用した手製の楽器を使って音楽を作っている。彼らの作る音楽にはレミング病を治療する可能性があるらしい、という噂を聞きつけハナ(宮﨑あおい)たちが彼らの元を訪ねてくるところから物語は動き出す。だが、僕はハナたちが彼らを訪れる前の約20分間が本当に好きだ。この映画を見るたびに、ミズイとアスハラがただ淡々とした日常を送るその様をいつまでも見続けていたいと思う。ガラクタを集めてきてはそれを演奏し、いろいろとエフェクタをつないで、ギターをかき鳴らす。ゴルフのキャディが運転するようなカートと自転車で併走する。そんな世界の終わりの中をただただ見続けていたいと思う。
 もちろん彼らが、日本列島を覆う驚異的な病から遠く離れて安全な避難所に逃げ込んでいるということではない。この映画は砂や泥が入り交じった濁った波の轟音から始まっていて、ミズイとアスハラは死者たちの所有物を盗む墓場泥棒でもある。彼らだけが安全な無菌室にいるわけではない。
 にもかかわらず、彼らのなんということのない日常に惹かれる理由は、彼らの顔を終始覆う笑顔のせいだろう。取り立てて重要な会話をするでもなく、いつも通りの朝の挨拶を交わす程度で、手を休めている時は静かにニコニコ笑っている。その笑顔を見ている間は、彼らが死にまみれた世界で、死者たちからかすめ取ったかのような生を生きていることを束の間忘れる。多分彼らは、もし世界にたったふたりになったとしても、その微笑みをやっぱり浮かべているだろう。
 「朝目を覚まして不思議に思う。なぜすべてはかつてと同じなの。ぜんぜんわからない。どうやって人生が続いていくのか」。そうやってどこまでも続いていくはずの世界の終わりは、だが突然終わりを告げる。ある晩、自家発電用の自転車をこぐアスハラの姿に重なってナンシー・シナトラの歌声が響く。だがここで流れるのは「The End of the World」ではなく、前年のアルバム『Nancy in London』に収録された「The End」の方だ。愛する者を失った後も続いていく世界のことを綴ったシルヴィア・ディーの歌詞に対して、ナンシー・シナトラ自身によるこの歌の歌詞では、虹の終わり、物語の終わり、川の流れの終わり、ハイウェイの終わり、とこれ以上どこへも続かない景色が列挙されていく。そしてすべてのものが終わり行く中で、私たちの愛だけは続いていくとそう言ってと、幽かな希望を求める言葉が付け加えられる。時が終わるまで、と。
 まるでなんの役を演じるわけでもなくただ浅野忠信と中原昌也そのままでそこにいるかのようなミズイとアスハラの日常は、彼らに治療者という役割を押しつけようとする東京からの訪問者によって終わりを告げる。『東京公園』を見て思ったのは、それまでの彼らがいた場所こそが公園なのではなかったかということだ。生も死も、楽器となりうる素材もただのガラクタも、有意なものも無為なものも十把一絡げに投げ出された場所。ただその組み合わせによってのみ、音楽が奏でられる可能性のある場所。ただ違いは、彼らの微笑みは時の終わるまで続くかもしれないような強いものだったが、この映画の中ではスクリーンを覆い尽くすほどの多くの人々に、拡散し伝播するような性質のものではなかった。

 『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』が製作された前年に、ナンシー・シナトラは約10年ぶりのオリジナルアルバム『ナンシー・シナトラ』を発表した。サーストン・ムーアやジム・オルーク、ジャーヴィス・コッカーやジョン・スペンサーが参加したこのアルバムは当時結構話題になったように記憶している。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』に彼女の「The End」が使われているのはその影響もあったのかもしれない。ただ、いまこの映画を見て思い出すのは、ナンシー・シナトラのアルバムではなく、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』公開の同年に発表されたロニー・スペクターの、こちらも久しぶりのアルバム『ロック・スターの最期』の方だ。キース・リチャーズ、パティ・スミスなどこちらも豪華ゲストが満載だが、『ナンシー・シナトラ』ほどは話題にならなかった気がするし、アルバム自体としての出来もナンシーに及ばないものだったような記憶がある。実際、買ったはずのこのアルバムは中古CD屋に売ってしまったと見えていま手元にない。だからおぼろげな印象しかないのだが、なぜこのアルバムを買ったか、その理由ははっきりと覚えている。このアルバムでロニー・スペクターがジョニー・サンダースの「You Can't Put Your Arms Around a Memory」をカヴァーしていて、ジョーイ・ラモーンがコーラスを歌っていたからだ。試聴機でこの曲を聴いた時、ジョーイのコーラスが入ってきた瞬間、まるで亡霊の声でも聴いてしまったかのような気がした。録音時期が長期にわたるこのアルバムでは、当然ながらこの曲は彼の生前に録音されて、たまたま死後数年経ったその年に発売されたに過ぎない。だが、ジョニー・サンダースのこの曲を、「思い出を抱え込むことは出来ない、そうしようとするな」、とささやくように歌う彼の声がとても無視できないものに聞こえたのをいまも覚えている。少々強引なことを言うなら、アンプの脇に佇むアスハラが、そうささやいていたっておかしくはないように思う。
 そしてその声は、ジョニー・サンダースを経由して、死者からのメッセージから死者へのメッセージへとかたちを変えて『サッド ヴァケイション』(07)へと続いていた。だが『東京公園』には、ジョーイ・ラモーンの声が聞こえる「You Can't Put Your Arms Around a Memory」やジョニー・サンダースの「Sad Vacation」などのような、特定の死者からの声や、特定の死者に向けた声はふさわしくないように思う。それは『東京公園』には亡霊が存在しないからではなくて、映画全体を貫くひとりの死者の代わりに、すべての人物が自分なりの亡霊を抱えているからだ。

 はじめに触れたように、『東京公園』に登場するまともに社会的な成人男性というのは、初島ただひとりである。光司の父親はすでに仕事を引退した身だし、バイト先のマスターは先に触れたようにゲイだ(宇梶剛士演じるこの人物こそが、この映画の中で真に愛について語ることのできる人物なのだが、それについて触れるスペースがないのは心苦しい)。光司に対して一方的に関係を取り付けようとする初島以外に、権威的な振る舞いをする人物は登場しない。そして光司自身もまた、カメラマンというスタンスのせいか、誰かに対して積極的になにかを働きかける感じではなくて、むしろ他から反射されるなにかを穏やかに受け止めるといった感じのキャラクターになっている。共同脚本の合田典彦は、シノプシスを書く際にまず「大人」の話にしようと思い、ついで「男」の話にしようと考えたと、今回のインタヴューで答えている。しかし結果的にはそのどちらでもない方向にこの映画は進んだと言っている。「大人」でもなく、「男」でもない。もちろんそれが結果として「女子供」のためのものになったわけではない。この映画は、大人や男といった一般と見なされているが実は限られた人々のためではなく、万人に開かれている。無論公園とはそうしたものだ。「女を愛するっていうのは赤の他人を愛することで、それが社会ってもんなわけ」、そう富永は言っていた。
 初島という人間はどうも公園という場所にそぐわないと述べた。彼の物言いは、自分より若い者たちがこれから経験するだろう世界、この公園の外側を知っているという態度で発せられる。確かに、彼が知っていて光司が知らないこともあるだろう。彼の方がより広い世界を知っているというのもある部分では正しいかもしれない。だが光司と初島の雇用関係が終わりを告げるその日、先に公園に到着した初島は酔いつぶれて、とても大きな木のくぼみに身を沈めている。まるで大木に抱きかかえられているみたいだ。その瞬間、初島は公園にそぐわない人物であることをやめる。仕事をほっぽらかして昼間から酒を飲んでいるような、反社会的な人間になったからではない。まだ居丈高で、傲慢な振る舞い(それは酒のせいでいささか子供っぽいものになっている)をしているとはいえ、彼は隣に佇む光司に、彼のことをどう思うかその意見を聞こうとする。契約ではないやり方で彼と関係を取り結ぼうとする。たとえ不器用なものではあってもそれはコミュニケーションの試みだ。彼の手と光司の手が固く結ばれる瞬間、わかりきったことなのに感動してしまう。確かに彼は光司より広い世界を観ていたのかもしれない。だが、必ずしも広い視野が狭い視野に比べて、より素晴らしい世界を見ていることにはならないだろう。ファインダー越しの視線が、何気なく見やっているだけでは見つけられない素晴らしさを発見することもある。いずれにしろ、彼と光司が公園で最後に出会った日、彼は大木にくるまれるようにして待っていた。やはり彼の世界よりも公園の方が大きかった。


 余談ではあるが、この映画の富永がなんだか好きだ。シチュエーション的には、「友人の元カノ」「血のつながらない姉」「謎めいた人妻」の三択ならば、「謎めいた人妻」だろうと思うのだが。はじめにこの映画を見た時はその理由がわからずにいたのだが、二度目に見て気付いた。榮倉奈々、小西真奈美、井川遥という3人の女性はいずれも本当に美しい。ただ、あとのふたりは、三浦春馬がカメラを通じて向かい合ってその美しさを発見するのに対して、彼女だけが彼に背中を見せることで、これまで気付かなかった部分を発見させるということに。この映画の途中で、カメラのシャッターを切っている人物の映像は記録されていないというごくごく当たり前の事実が、光司と富永の間でやりとりされる。カメラの後ろにいる光司は、彼の目の前にいる人たちの光の反射を捉えて記録するが、その彼を記録しているものはいないはずなのだ。だが、この映画の中で何度か、榮倉奈々は三浦春馬の背後から現れて、突然彼の肩を叩く。その場面が来るたび、光司がはじめに登場する、あの後ろ姿と画面を覆い尽くす笑顔を思い出して、ひとりこう考える。木は緑、バラは赤。なんて素晴らしい世界なんだ、と。