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November 18, 2011

『猫、聖職者、奴隷』アラン・ドゥラ・ネグラ+木下香
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

 『猫、聖職者、奴隷』は「セカンドライフ」なるものの、その魅力やら中毒性やらを理解することの手助けになるような作品では一切ない。「なぜ人々はセカンドライフに熱中するのか」などといったことを心理学的に解きほぐすような手つきもほとんどゼロだと言っていい。彼らはすでに「セカンドライフ」を生きている。これは前提であり、探求の目的ではない。では、このフィルムは何を映し出そうとしているのか。仏映画レーベルカプリッチの機関誌「Capricci 2011」に掲載された『猫、聖職者、奴隷』をめぐる鼎談の中で、エルヴェ・オヴロンは「セカンドライフ」という呼称に着目し、私たちの現実の生が「ファーストライフ」であるとしたら、では私たちは一体いくつの生を持つことができるのだろうか、という興味深い問いを立てている。その問いは「セカンドライフ」に対してだけでなく、「映画」という存在そのものに対する問いとして読むべきであるだろう。なぜならば、映画はつねに「複数の生を同時に生きる」こと、つまり「演じること」という問いを継続し続けてきたメディアであるからだ。
 そのような問いに接するこのフィルムに対して、ここでジャン・ルノワールという特権的な名前を持ち出すことは、決して大袈裟な話ではない。あの『ゲームの規則』の中で、モフモフとした熊の毛皮を身に纏ったジャン・ルノワールその人の姿が、この『猫、聖職者、奴隷』の中では、「セカンドライフ」を生きる「ファーリー((毛皮で包まれたモフモフとしたキャラクターの愛好家)」たちによって、まさしく反復されているからである。このフィルムで最もチャーミングな登場人物であり、「ファーリー」のひとりであるマーカスは、自らに眠るキャラクターが「猫」であると確信をもって断言する。
 ルノワール並みに大きな体に不釣り合いなフワフワとした猫耳や尻尾を身に着けるだけで満足するわけではなく、階段を音を立てずに登ったり、外の物音に過剰に反応して見せたり、と、彼は「猫」としての生をアクション(身振り)によって自ら証明しようとする。「これが俺なんだ!」と語るマーカスだが、しかしその一方で彼は冷静な現実主義者でもある。周囲の人々からは決して理解されない「ファーリー」の同志たちのために、彼は「ファーリー」のラジオ局やテレビ局を作り、人々に対する理解を求めようと活動するのだ。もちろん、猫耳と尻尾は付けたまま、否、生やしたままで。マークスは、自らのキャラクターを演じる境界を設定することを前向きに放棄している。彼の「真実」は「人間」であることのみにも、「猫」であることのみにもあるのではなく、「人間」であり「猫」であるという運動を「同時に」生きることにあるからだ。
 どちらが「ファースト」でどちらが「セカンド」なのかといった序列としてではなく、あるいはどちらが「現実」でどちらが「虚構」なのかといった二項対立としてでもなく、ふたつの現実をひとつの「心‐体」の組み合わせにおいて生きる人々がここには映し出されている。このフィルムはふたりの監督曰く「インターネットによるロード・ムーヴィー」としての本作のひとときの終りを、あの「バーニング・マン」の地に見つける。あらゆるネットワークに閉ざされた一週間限りの共同体と、ネットワークによってのみ繋がれた虚構=永遠の世界における共同体の親近性に言及することで、このフィルムはより普遍的な私たちの「現実(あるいは真実)」をめぐる、流動的に変化し続ける問いに対するひとつのリアクションを織りなしているだろう。
  『猫、聖職者、奴隷』に引き続く両監督の最新作は『ミュータント(Les Mutants)』とアナウンスされている。


nobody presents "cinemalink" vol.12にて上映
渋谷アップリンクにて2011年11月19日(土)19時開場/19時30分開演