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January 30, 2012

『J・エドガー』クリント・イーストウッド
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 イーストウッドは、あるインタヴューで、ものごころついたときからFBIの長官はずっとフーヴァーだった、と言っている。49年間も同じ地位になった人物なので、イーストウッドの感想も当然のことだろう。だが、ぼくはこの人をまったく知らなかった。この人の名前を知ったのも、イーストウッドが、ディカプリオ主演でこの人についての伝記映画を撮影中だというニュースを聞いたからだ。つまり、ぼくは、まったくの白紙でこのフィルムに臨んだことになる。
 1924年から没した1972年の間FBIの長官だったというのだから、この人物は、かなり特殊な人物だったのだろう。執務室で自伝の口述筆記を始めようとするエドガーの姿。つまり、その時々のエドガーの姿がまるでパズルのようにパッチワークのように描かれることになるだろう。『市民ケーン』以来、その手法は映画がもっとも得意とするところだ。フラッシュバックの多彩な構成によるパッチワークというとき、『市民ケーン』ならば、「薔薇の蕾」Rosebudという「謎の言葉」──ヒッチコック流に言えばマクガフィン──があった。だが、『J・エドガー』には、隠された部分がまったくないのだ。もともと図書館にカードシステムを導入したことで知られるエドガー・フーヴァーは、FBIでは諮問による科学捜査の導入に尽力する。同時に、母の衣裳を身に着けるくらいに極度のマザコンだったエドガーは、プロポーズしたヘレン・ギャンディに、まるで絵に描いたようにふられるが、ヘレンは、彼の私設秘書として彼を一生支え続けることになる。。そして、40年間に亘って、彼を支えたクライド・ドルソンとの「プラトニック」な同性愛の関係。そんな秘密めいた事どもも、いとも簡単に開陳されてしまう。つまり、この2時間を越すフィルムで、「導きの糸」のようなものは存在していない。
 そして49年間という長い時間は、アメリカ社会の歴史であると同時に映画の歴史でもある。ジャンジャー・ロジャースと夕食を共にしたり、「実はドロシー・ラムアーと結婚しようと思っている」と語ったりすることで、セレブリティの仲間入りをするエドガー。同時に犯罪を一掃するのを目的としたFBIならば、30年代のアメリカの犯罪映画が、マフィアをはじめとする犯罪組織の駆逐のキャンペーンであったことは周知の事実だ。『民衆の敵』や『Gメン』といった映画で主演を務めたのは、ジェイムズ・キャグニー。当時、ようやく常態になったトーキー映画の申し子のように、シング&ダンス・マンとしてスクリーン狭しと歌い踊り、異様なまでの早口で台詞をまくし立てるギャングとしてマシンガンを構え続けたのが彼だった。
 このフィルムでは、相手を握手をしてから、後で手を拭くエドガーといったマーティン・スコセッシのフィルムのディカプリオならお馴染みのシーンと共に、強い母親に自らの口調を正すように命じられ話し方教室のような場所に通わされるエドガーの姿が描かれている。おそらくジェイムズ・キャグニー。への偏愛と共に、この言葉への偏執狂的な接近こそ、後にエドガーが大統領をはじめとする有力政治家に対して自らの権力を維持する手段となる盗聴に繋がることになるのではないか。ジョン・F・ケネディが暗殺されたという報告を電話で受けたエドガーは、ちょうどケネディとマリリン・モンローがベッドで囁きあう声を盗聴器から耳にしていたところだった。