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June 8, 2012

『ミッシングID』 ジョン・シングルトン
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

 ここまで顕著になったのはいつからだろうか、気付くとアメリカ映画の主人公たちは皆、アイデンティティを探している。ヒーローやヒロインたちも(『アヴェンジャーズ』の設定説明だけのために作られたかのような『キャプテン・アメリカ』、ついに幕を閉じるノーランの「バットマン」)、そうではない平凡すぎる人々も(『ヤング≒アダルト』『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』)。単に『ボーン・アイデンティティ』にかこつける方便としての邦題『ミッシングID』をつけられたこの映画もまた、一見そうした流れの中に位置付けられるかのようだ。だが他人からすればどうでもいいような「こうでしかありえなかった私」という自己同一性を取り扱っているように見せかけながら、むしろこの作品のおもしろさの重点は、それがなし崩しになっていくことの方にある。
『ボーン・アイデンティティ』と本作との決定的な違いは、前者ではマット・デイモンの強さの理由が失われた過去そのものにあったのに対して、テイラー・ロートナーの強さは、失われた過去や会ったこともない父親に起因するのではなくて、結果的には偽物に過ぎなかった養父母たちとの生活によって作られたということが明白に描かれている点だ。失われた過去が、突如として現在に介入してくることもあるかもしれない。でもそれを切り抜けるのを助けてくれるのは、運命づけられた特殊な才能でも、見知らぬ父から伝えられた遺伝情報でもなく、ただこれまで生きてきた中で学んだことに過ぎない。だからロートナーは、自分が誰かなんて一切迷わない。
 そもそも、原題である「abduction」という言葉すら胡乱なもので、もし誘拐や拉致を意味してるんだとしたら、いったいどの事件のことを指しているのか、映画を見終わってもよくわからない。まさかこれは、チャールズ・パースの「アブダクション」のことなんだろうかという気すらしてくる。演繹でも帰納でもなく、仮説形成。ともすればいかがわしい三段論法にもなりかねないようなもの。アイデンティティなんてそんなもんだろと、シングルトンが考えているのかどうか。
 ……というようなことと、この映画のクライマックスの舞台がピッツバーグ・パイレーツの本拠地PNCパークであることは、おそらく無関係ではない。旧共産圏一の凄腕スパイにアメリカの一高校生が勝つ可能性があるとしたらこのロケーションしかない、とロベルト・クレメンテのユニフォームをまとったロートナーの背中が、そう思わせてくれる。そしてヒロイン役のリリー・コリンズが、彼に頼まれた仕掛けを行った後で友人の「大丈夫か?」という問いに応えて見せる、人差し指と中指を交差させるおまじない。普通の高校生である彼らが世界一のスパイを倒せるとしたら、それは才能の遺伝でも運命のいたずらのせいでもなく、クレメンテとピッツバーグとちょっとしたおまじないのおかげなのだ。そしてそれは「こうでしかありえなかった私」のものなどではなくて、その球場にいる人々全員が持っているような、ありふれた力なのだ。単なる愛国心でも愛郷心でもないそれは、アメリカ映画がこれまで築き上げてきたものの一端に確かに触れていて、いまの私にはヒーローやヒロインの自分探しよりよっぽど興味深く思える。
 男性客率100%の劇場でこれを見て、超スカッとした。

丸の内ピカデリー他にてロードショー中