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October 25, 2012

【TIFF2012】前半レポート
代田愛実

[ cinema ]

10月22日−24日、鑑賞作品

〈コンペティション部門〉
『風水』(ワン・ジン/中国)
『ティモール島アタンブア39℃』(リリ・リザ/インドネシア)
『アクセッション ― 増殖』(マイケル・J・リックス/南アフリカ)
『シージャック』(トビアス・リンホルム/デンマーク)
『黒い四角』(奥原浩志/日本)
『NO』(パブロ・ラライン/チリ=アメリカ)
『未熟な犯罪者』(カン・イグァン/韓国)
『もうひとりの息子』(ロレーヌ・レヴィ/フランス)

〈日本映画・ある視点部門〉
『何かが壁を越えてくる』(榎本憲男)
『あれから』(篠崎誠)
『あかぼし』(吉野竜平)
『はなればなれに』(下手大輔)
『くじらのまち(PFFグランプリ)』(鶴岡慧子)

〈ワールドシネマ〉
『サイド・バイ・サイド (フィルムからデジタルシネマへ)』(クリス・ケニーリー)
『ストラッター』 (カート・ヴォス、アリソン・アンダース)



月曜日から3日間かけて、通算15本を鑑賞したことになる。明らかに非日常的な試みだった。
見たくとも逃したり見送った作品もある。本映画祭に臨む前にスケジュールを組み立てた段階では、コンペティションを網羅するつもりでいたのだが、2日目から予定を変更し、ワールドシネマやある視点部門の本数を増やした。

3日間を終えて、映画祭というものの感触がつかめた。
映画祭とは、特に国際映画祭とは、1枚のパッチワークのようなものだ。各国の様々な規模の作品を並べて観てみると、各国の共通点や相違点が浮かび上がり、1枚につなげてみると色彩豊かな、その年にしか作り得ない像が出来上がるのである。


『未熟な犯罪者』と『風水』において、母と息子の希薄な絆、父親の不在が描かれている(これは『あかぼし』にも通じる)。祖父あるいは祖母と孫はうまくいく。『未熟な〜』では息子が母親の軌跡を辿り、どうしようもない負の連鎖の背景には政策の手落ちがあるのだと告発してもいる。こちらでは長い間離れていたから希薄な絆に対して、『風水』では一緒に住んでいて母が家計を支えているにも拘らず大きくなった子が親を見放すという悲惨なドラマが描かれる。息子が幼い頃父親が自殺し、一気に10年経ち、誤解もそのままに絶縁宣言という飽食気味な展開に驚いたが、主人公の女性に降りかかる困難がすべて風水のせいだった、という独自のユーモアだとしたら、その感覚は大したものだと思う。
『アクセッション ― 増殖』では本当にどうしようもない主人公が描かれる。壮絶である。が、現実に起こってもおかしくない環境がそこにはあると告げている。監督によれば、受け取り方は観客にゆだねられているというが・・・。彼は無知で、倫理に欠けていて、天国も地獄も考えない。遅かれ早かれ死ぬ。『シージャック』はその名の通り船がジャックされ、乗組員と彼らの雇用主である組織のトップが交互に描かれる。交渉は通訳が入るが、通訳も人質のようなもので役には立たない。この2本は、どうしようもない状況を眺めているしかない、見る事を強いられる、という辛さがある。
『ティモール島アタンブア39℃』では母親の不在、父と息子が描かれた。テープの声が今は遠くなってしまった母親と土地のを思わせるツールであったが、密かでも誰かへと届くテープの声が、なぜ最後には聴くものの居ない内側へ閉じてしまったのか。それは祈りなのだろうか。
上記の作品に覚えた共通の違和感は、そうだ、彼らは結局のところ、コミュニケーションが取れていないのだ。カメラはやたらと顔を映すけれど、その顔はカメラにしか見られていないとうことだろう。
断絶された土地を扱うのは『もう1人の息子』も共通している。本作が面白いのは、フランス映画であることが"判る"ことだ。パリ/フランス語が最初のコミュニケーションを成立させる。パレスチナとイスラエルのアイデンティティはコミュニケーションで解決されるという1つの可能性を示唆している。父親や兄は複雑だが、母や育ても産みも母で、妹は人形を抱く小さな母として息子達に愛情を示すのだ。
異色なのは『NO』で、1988年のチリで行われた、軍事政権を敷く"独裁者"ピノチェト大統領の政権続投の是非を問う国民投票を扱っている。賛成派と反対派はそれぞれ15分のTVスポットを設け、国民を各派閥に取り込もうと試みる。作品は、反対派="NO"派の番組制作の仕切り役レネ(ガエル・ガルシア・ベルナル)を主人公に据えて展開され、ファッションやビンテージカメラによる撮影など当時の空気を出すよう演出され、各派の広告映像も凝っていて目に飽きない。どちらが勝つのか?軍や警察による脅威はどうか?といったサスペンス要素も面白い。だが最も興味を引くのはレネという人物の描き方だ。彼は首尾一貫して「広告屋のやり方」での勝負を主張する。危うい大仕事を引き受けたにも拘らず、どこか一定の距離を置きながらこの政権交代劇を見ているよう。
そして勝利した後のレネの目。広告屋として役目を果たし、その後会社のボスとの仲も回復し、息子ともうまくいっていて、チリは未来へと向かっている・・・それでもなお寂しさを帯びるあの目は何だったのか。ちっぽけなスケートボードで自分1人を乗せて街を駆ける姿が焼き付く。
警察介入による混乱の中で背中からレネを捉えた手持ちカメラは、彼の背中を脅かしている。彼の背後を常につけ狙う何かがいる。私たちがその"何か"を見る事が出来ないことは、映画の恐ろしさでもある。この倫理は非常に重要なことだ。広告屋として戦うように、映画には映画にしか出来ない表現がある。


ある視点部門と、『サイド・バイ・サイド』は呼応している。現在映画は誰でも撮れるから問題なんだ、効果に慣れすぎて映像を信じられなくなる、映画はかつて振るまいかたを教える教典だった・・・etc。もう数本見てから考えたい。


本来ならば20日から始まっているこの映画祭、個人的な都合で平日のみの参加となる。評判の有無に関わらず多様な作品を見るようにしている。1日5本、疲れそうな話しだが、不思議といつもより体調がいい。
ここへきてようやく、東京国際映画祭を"楽しんで"いる実感が持てた。

第25回東京国際映画祭 10月20日から28日まで 六本木ヒルズほかにて