« previous | メイン | next »

January 30, 2013

『ホーリー・モーターズ』レオス・カラックス
隈元博樹

[ cinema , cinema ]

目の前に映る登場人物たちに、僕たちはそれぞれの行動原理や動機を求めたがる。登場人物の頭に、必ず「なぜ、どのようにして」といった簡単な疑問詞を投げかけるのだ。行動原理や動機が説得される場面に出くわすと、僕たちはそのフィルムの浄化作用(=カタルシス)に触れ、ポンと膝を打ったように満足感を覚える。だけどカタルシスは時に迂回し、見え隠れするものだ。そう最初からたやすく目の前に現れてくるものでもない。一度全編を通して見てもわからず、二度目にやってくるカタルシスもあるだろう。そうしたカタルシスの行方や存在そのものに対し、見事な一石を投じた刺激的なフィルム。それがこの『ホーリー・モーターズ』だ。

オスカー(ドゥニ・ラヴァン)には数々の「アポ」が存在する。白塗りのリムジンのなかで運転手のセリーヌ(エディット・スコブ)から渡される、ひとつひとつの「アポイントメント」。身なりから推測して、オスカーはどこか一流企業の社長職だろうか。命を狙われているらしく、電話ごしに銃器の発注を促し、移動中はボディーガードまで配備している。だけどそんな推測も報われず、彼はパリの風景と呼応しながら、カツラやメイク、つけヒゲといった化粧や衣装に身を委ね、車中のなかで別人の姿へと変貌していく。老婆の乞食、モーションキャプチャーの訓練、不気味な男(メルド!)、引っ込み思案な娘を叱る父親……次々とこなしていく彼の9つのアポとは、計9つの役を演じることにある。だけどそのすべてを「アポ=仕事」として引き受けるにもかかわらず、オスカーはいったい何のために彼らを演じているのだろうか。たとえば『ミッション・インポッシブル』のイーサン・ハントがゴムマスクで他人になりすます行為は、屈強なテロ組織の横暴を阻止し、与えられたミッションを遂行させるための手段のひとつだろう。『バットマン』シリーズのブルース・ウェインや『スパイダーマン』のピーター・パーカーにしても、もうひとりの自分を生きることと引き換えに、ゴッサム・シティやニューヨークの秩序を守ることが彼らの宿命なのだ。常にそれらのフィルムが最初から勧善懲悪の構造の上に成立しているフィルムであるいっぽう、『ホーリー・モーターズ』のオスカーの「アポ=仕事」は、最終的にどこへ結実していくのか簡単には教えてくれない。彼が他者を生きるためのカタルシスを簡単に暴くことはできないのだ。では仕事であるにもかかわらず、彼はいったい何のために演じること、あるいは他者を生きることに身を投じているのだろうか。

9つのアポ以外にもオスカーは他者を演じている。冒頭の社長職である彼も、憔悴しきったリムジンのなかの彼でさえも、それは誰かを演じた彼なのかもしれない。彼はリムジン内の向かいに突如現れる同僚の老人(ミシェル・ピコリ)に対し、「行為の美しさがあるからこそ、この仕事を続けていられるんだ」とささやく。よろめきながらも杖をついて歩く乞食の彼は、モーションピクチャーによって激しい運動とセックスをも自らの身体で体現する。墓石の献花や人間の指、そして紙幣を貪り食らうことも「行為の美しさ」であり、「お前がお前として生きることが罰なんだ」と諭す父親の彼でさえも「行為の美しさ」なのだ。だからドゥニ・ラヴァンが演じるすべてのオスカーとは、「行為の美しさ」に取り憑かれた身体だ。時折挿入されるマレーの活動写真は、アポを含めたそのすべてにおける身体の証左であり、彼の映るすべてのショットに対してオスカー=ドゥニ・ラヴァンの身体を、そこにくまなく抽出することができるだろう。そして彼が演じることを続ける理由とは、「行為の美しさ」を目の当たりにする第三者の強い存在によって成立している。

つまりそれはまさしく「行為の美しさ」を目撃する僕たち観客のことだ。ドゥニ・ラヴァンを取りまくセリーヌをはじめ、雑誌モデル(エヴァ・メンデス)の微動だにしないあの見事なプロポーション。元カノで同僚のエヴァ(カイリー・ミノーグ)の歌には「Who were we? (私たちは誰だったの?)」が連呼される。オスカーを取りまく身体も『ホーリー・モーターズ』の血と肉となり、ドゥニ・ラヴァンを見ている観客たち、つまり僕たちへ向けられたカタルシスをつくり上げていくのだ。そしてカラックスは「行為の美しさ」にこだわることで、自然と映画のジャンルへと到達し、「映画のなかの映画」という概念へとたどり着くことになる。豊穣な映画の旅は、カラックス本人がベッドから起き上がるところから始まったはずだ。奇妙な木々の壁をこじ開けると、薄暗闇のなかの観客たちがスクリーンに映る自分の映画を待っている。だから『ホーリー・モーターズ』はフェリーニの『8 1/2』や、ヴェンダースの『ことの次第』、ゴダールの『パッション』といった映画監督たちが、自らを再審に付すことで到達する「映画のなかの映画」に親しいと言える所以なのかもしれない。

最後のアポへと向かうリムジンを、不意に数羽の鳩が襲う。何事かと運転者席へ顔を乗り出し、「タクシー、鳩を追って」とセリーヌにひと芝居つくろうオスカー。「タクシーって」とやりとりするふたりのあいだに、初めての笑みがこぼれる。託された数々のアポとは無縁の、ささいな至福のひととき。「行為の美しさ」が、ふたりに還元された瞬間だ。今日のアポが終わっても、また明日もオスカーにアポは訪れるだろう。明日のリムジンの行き先はわからない。だけど「行為の美しさ」を目の当たりにし、その還元されるべく瞬間が来る日まで、ふたたび僕たちはカラックスによる次の「アポ」を待ち続けるだろう。

『ホーリー・モーターズ』は2013年春、日本公開予定(配給:ユーロスペース)

「第16回カイエ・デュ・シネマ週間」【2月3日(日)まで】