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January 30, 2013

『コックファイター』モンテ・ヘルマン
結城秀勇

[ cinema ]

『カリフォルニア・ドールズ』のピーター・フォーク、『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』のベン・ギャザラ、あるいはもっと時代をくだって『さすらいの女神たち』のマチュー・アマルリック。彼らが演じた役柄に対する愛着をどうしても抑えきれない。女子プロレスのマネージャー、ストリップバーのディレクター、バーレスク劇団のプロデューサー、といった彼らの役柄は、つまるところ女たちを喰い物にしているのだし、その免罪符として機能するはずの彼らの「芸術」、彼らの「ショー」は、本当のところ、どこまで彼らが演出したものなのか、どこからが彼らに使われる女性たちが自らの手で作り上げたものなのか正直なところわからない。彼らは、金銭的な面で有能であるとはとても言い難いし、つまらぬことで裏切りもし、くだらない賭けに負けては負債を背負う。だが、彼らが彼らの「ガールズ」に対して負う責任は、おそらく当人以外の誰にも計り知れないほど巨大なものである。その責任とリスクを背負ってまで彼らが手に入れたいものーー『カリフォルニア・ドールズ』の原題が示す「一切合切の栄光」ーーとは、「ショー」の対価として得られる金銭や名誉というよりも、「ショー」そのものだ。「ショー」そのものだけだ、と言ってもいい。
『コックファイター』の主人公、ウォーレン・オーツ演じるフランク・マンスフィールドもそうした人物のひとりだ。もちろん彼にとっての「ガールズ」とは鶏だし、しかも映画の冒頭ではたった一羽きりの鶏だ(しかも早々に死ぬ)。彼は南部最優秀闘鶏選手という栄光を勝ち取るために、言葉さえ捨てた。だが映画を見ている私たちに、そのタイトルがどれほど素晴らしいものなのか、それが持つ意義がなんなのか教えてくれるのは、(原作者・脚本家であるチャールズ・ウィルフォード演じる)往年の名選手エド・ミドルトンの手に握られた、輝きもくすんだちっぽけなメダル以外になにもない。賭けのかたに、住まいも車も若いガールフレンドさえ奪われ、弟夫妻が住む実家さえ売り払い、闘鶏が原因で素晴らしい婚約者との結婚も叶わない、その対価としてのメダルはあまりに粗末なものに見える。
見たこともない闘鶏を野蛮で違法なものだと考え、それをやめて自分と穏やかな結婚生活を送ってほしいと願う婚約者を置いて、フランクは無言で立ち去る。そして自分の闘鶏家人生を賭けた大勝負を前にして、彼は彼女に一通の手紙を書く。「一度でいいから見てほしい」と。
映画館の窓口で販売されているこの映画のパンフレットを読むと、この映画の製作段階にあった、プロデューサーと原作者と監督の見解の相違がよくわかる。そのことが結果的にこの作品にもたらした悪影響も多々あるのだろう。だがそれでも、というよりもそれだからこそ、私はこの映画には、フランクが「一度でいいから見てほしい」と願ったものが色濃く刻みつけられていると思う。あのロジャー・コーマンをして儲けを生み出すことができなかったこの映画が、オーツに斧を持たせようが、鶏から吹き出す血糊を足そうが、「ボーン・トゥ・キル」というタイトルに改題しようが、コーマン作品にふさわしい明快な方向づけを拒み続ける最大の理由は、オーツの顔に浮かぶなんとも曖昧な微笑みだ。おそらくそれだけが、フランクが闘鶏という「ショー」にすべてを賭け続ける意義を教えてくれる。
繰り返すが、私がここに名前を挙げた男たちの中に「一度でいいから見てほしい」と願うのは、彼らが勝ち目のない戦いを続ける苦渋に満ちたマチズモではなく、最大の困難の中にあってさえ彼らの顔を彩る微笑み、最良の雄鶏が手の中で息絶えんとするその瞬間にさえ浮かぶ謎めいた微笑みだ。たぶんそれは、スペクタクルによって人間が生きるための術を学ぶ、ひとつのやり方をぼんやりと示してくれている。特に35mmフィルムで映画を見ることがもはや普通ではなくなってしまったいまだからこそ、ひとりでも多くの人に彼らの微笑みを「一度でいいから見てほしい」。


渋谷シアター・イメージフォーラムにて上映中