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February 6, 2013

『あなたはまだ何も見ていない』アラン・レネ
梅本洋一

[ cinema ]

 この作品の幾重にも折り重なった豊饒さを書き記すにはかなりの字数が必要だろう。かつての和田誠の書物のタイトルにもなった『お楽しみはこれからだ』という『ジャズ・シンガー』の台詞You ain’t seen nothing yetからタイトルを借りたこのフィルムの豊饒さを一端でも語ろうとすれば、オルフェウスとエウリディケの神話のように、ぼくらも冥界への長い旅に出なければならない。

 ジャン・アヌイの『アントワーヌ、あるいは挫折した恋』と『ユリディス』を下敷きにした極めて綿密なシナリオ。その戯曲とシナリオを演じるために召還された俳優たち。多くのことを記すべきだ。

 まずアヌイの2作品について。まず『アントワーヌ』。

 かつて流行の作家であり、今はバヴァリアの山中に引きこもり、若い女性と暮らすアントワーヌは、猟銃を掃除中に不慮の死を遂げる。彼の公証人は、遺言の開封のために、アントワーヌのかつての縁者たちを呼び寄せる。大広間に集められた縁者たちの前で公証人は、一枚のDVDを上映する。ほぼ『アントワーヌ』の原作通りの開幕を持つこのフィルムだが、原作だとDVD(まだ書かれた当時存在していない)ではなく、レコードだ。アントワーヌの声が吹き込まれたレコードを頼りに、集まった人々が故人の思い出を語るのが原作である。降り続く雪のために山荘への道が閉鎖され、故人について語るばかりではなく、集まった人々の間の人間関係も変貌していく。やがて道が開通し、人々は山荘から去っていく。

 次に『ユリディス』。ギリシャ神話のオルフェウスとエウリディケは、コクトーの『オルフェ』から唐十郎の『風の又三郎』やピナ・バウシュまで実に多くの作品に着想を与えている。アヌイの『ユリディス』──日本でかつて劇団四季が上演したときの題は『愛の条件 オルフェとユリディス』だった──も、その1本。アヌイの作品では女優のユリディスが駅のカフェでヴァイオリン奏者のオルフェに出会い、劇団を去ろうとするが、ふたりはアンリ氏に出会う。アンリ氏は、ユリディスが彼の愛人だったことをオルフェに告げ、ユリディスとオルフェは仲違いし、ユリディスはバスに轢かれてしまう。アンリ氏は、ユリディスを救う唯一の方向は、彼女を見ないことだとオルフェに告げるが、オルフェは彼女を見てしまい、ふたりはホテルの一室で亡くなる。

 『あなたはまだ何も見ていない』で、アントワーヌ(ドゥニ・ポダリデス)の山荘に召還された縁者たちとは、かつて『ユリディス』の上演に参加した俳優たちである。初演に参加したとされるピエール・アルディティとサビーヌ・アゼマ、再演に参加したランベール・ウィルソンとアンヌ・コンシニ、そしてミシェル・ピコリ、マチュー・アマルリック、イポリット・ジラルド、アニー・デュペレー等、現代の名優たちがサロンに集まっている。新演出の『ユリディス』への上演を許可するかどうかを俳優たちが判断するというわけだ。彼らは、新演出の『ユリディス』(これを演出しているのはブリュノ・ポダリデスであり、このフィルムの共同監督としてレネと共にクレジットされている)をDVDで見ることになる。若手で多国籍の俳優たちによって、極めて現代的な演出で演じられているDVDの中の『ユリディス』を見つめる名優たちは、その舞台稽古の評価を忘れ始め、劇中の人物たちに同化を始める。

 『ユリディス』が初演されたのは1942年。演出はアンドレ・バルサック。オルフェはアラン・キュニー、ユリディスはモネル・ヴァランタンが演じた。そしてオルフェの父を演じたのはジャン・ダステだった。それから50年近くが経ち、1991年の再演では、オルフェは何とこのフィルムにも出演するランベール・ウィルソンが演じ、ユリディスを演じたのはソフィー・マルソー、そして演出したのはランベールの父ジョルジュ・ウィルソンだった。

 まずサビーヌ・アゼマとピエール・アルディティが、そしてランベール・ウィルソンとアンヌ・コンシニが、オルフェとユリディスに同化を始める。フィルムは、ときにアゼマ=アルディティ、ときにウィルソン=コンシニが演じるオルフェとユリディスを映し出す。自らの中で台詞を探し、それを明瞭に思い出し始め、それを口にし始める俳優たち。記憶の中に他者の言葉を探り当て、アヌイの台詞を媒介にして、自らの過去と自らの現在をつなぎ合わせようとする俳優たちの姿は、俳優という自らの職業そのものを本名で出演することで演じる彼らの姿が艶めかしく露呈する瞬間を見つめることだ。自らとは別の誰かを演じるのが俳優という職業であるとしたら、このフィルムは、俳優という職業そのものが生成する時間をじっくり眺めることでもある。他者を演じるための言葉、その言葉が与えられる瞬間に、俳優は自らでありつつ別の誰かに受身する。

 ミシェル・ピコリ、マチュー・アマルリック、イポリット・ジラルド、アニー・デュペレー、そして脇を固めるコメディー=フランセーズの名優たち。さながら俳優たちの饗宴を見るようなこのフィルム。ここから思い出されるのは、彼らの過去と現在ばかりではない。この戯曲を初演したアラン・キュニーの姿や、この戯曲を日本で初演した日下武史や江間幸子(故吉原幸子、詩人)など実際に舞台で見たこともない人々の姿、そして『アントワーヌ、あるいは挫折した恋』の翻訳者である故大久保輝臣氏──彼とはパリでアヌイのla Culotteをアトリエ座で一緒に見たことがある──の姿が思い出される。いくつもの過去が、見たこともない過去までも含めて、アヌイの言葉を通じて、レネの演出を通じて甦ってくる。まるで長い年月をかけて熟成したようなワインにも似た豊饒さ。そうした装置を生み出した、今年90歳になるアラン・レネにこころから感謝したい。このフィルムのラストを飾るのはアーヴィン・ドレイクが1961年に作り、1966年にシナトラが唄ったIt was a very good yearだ。17歳、21歳、35歳……この歌の中でも幾重にも記憶が重ね合わされていく。