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February 7, 2015

『少女と川』オレリア・ジョルジュ
隈元博樹

[ cinema ]

 この映画の水面には、ふたつの働きがあると思う。ひとつは物質として存在し、つねに外からの光を照り返すようにして反射させること。もうひとつは地上にかけて存在する現実の世界から、その奥底へと繋がる別の世界を想起させることだ。だからここに映る幾多の川はその水面下の状況を映し出すことはないし、つまりはどの水面も透き通ってはいない。目上の太陽や街灯を反射させることはあるけれど、私たちは水中の状況を知ることさえできないのだ。そんな不鮮明な水面が私たちに見せるものとは、流れに押し寄せられるようにして生じる小波のうねりだけ。しかしこの映画の人物たちやモノローグ、そして物語の所在が水面を構成する川に起因している以上、こうして単に映し出される水面の映像に、ただならぬ興味をそこへ見出してしまう。
 山奥の叔父のレストランを訪れたサミュエル(ギヨーム・アラルディ)は、偶然ながら店脇の川へ身投げしようとするヌーク(サブリナ・セイヴェクー)を助ける。男女はこの救出をきっかけに手を取り合い、やがてパリでの生活をともにしていくのだが、ふたりはある些細なすれ違いによって当初の関係を悪くしてしまう。ほどなくしてサミュエルは不慮の自転車事故でこの世を去り、取り残されたヌークは哀しみに耽るばかりか、生前に果たせぬままとなってしまった彼との和解を切に願っている。そんなヌークの傍にはいつも川(セーヌ川だと思われる)が流れ、彼に向けられた彼女のモノローグは傍を流れる川の映像と重なり合っていく。まるで死後の世界にいるサミュエルへと語りかけるようにして、彼女は目の前の川そのものと対峙しようとするのだ。
 たとえばこの水面とは、私たちやヌークが生きる世界とサミュエルが向かった死後の世界をつなぐ水面だと言うこともできるだろう。そして見えるはずのない「水面下=死後の世界」とはどのような状況で、どんな世界が広がっているのかというイメージをも可能にさせていく。だから私たちはこの水面の映像を眺めることで、ヌークとともにこの映画が導く見えない死後の世界のことをふと考え、おのずとその世界へ繋がりたいと思うようになる。それはヌークとサミュエルがあの薄氷の張った川の水面によって引き寄せられ、サミュエルの死後もなお川の水面へとささやきかけるヌークがいるからだ。そしてヌークの前に現れる橋の男(セルジュ・ボゾン)は、彼女と同じく恋人を事故で亡くした存在であると同時に、その水面の働きを象徴するかのようにして私たちの生きる世界と死後の世界を往来して見せる。つまり彼は不可能だったサミュエルとの交信をヌークへと促す媒介者であり、私たちにこの映画の水面の重要性を決定づける存在なのだ。透き通ることのない不鮮明さゆえに生じる邂逅とは、この『少女と川』に映し出された水面によって十全に物語られようとしている。水面はただ打ち寄せるのみ。だけど、それだけで良いのではないかと思う瞬間だった。

第18回カイエ・デュ・シネマ週間 in 東京にて2/8、3/14に上映
次号「NOBODY ISSUE 42」ではオレリア・ジョルジュ(L'ACID)のインタヴューを掲載予定