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February 5, 2015

『メルキュリアル』ヴィルジル・ヴェルニエ
結城秀勇

[ cinema ]

「第18回カイエ・デュ・シネマ週間in東京」のチラシには、この作品の物語が、いま現在ここにある世界とは別の世界を描いたある種のファンタジーのようなものとしてあらすじが書かれているのだが、実際映画を見てみて、半分同意するとともに半分納得できないでいる。ヴィルジル・ヴェルニエという若い映画監督の過去作について書かれた海外のいくつかの文章にちらっと目を通してみると、決まってドキュメンタリーとフィクションとの混合について書かれてあるが、それも『メルキュリアル』という一本の作品しか見ていない私には、なんかわかるけどなんか違う......という印象を抱かせる。というのも、この作品のどの部分が現実に基づいていて、どの部分が現実に基づいてはいないのか、など私にはまったく見分けがつかないからだ。それは単なる知識やリテラシーの不足による問題かもしれないのだが、同時にこの作品の持つ特性としての問題でもあると思う。『メルキュリアル』は、真の部分と偽の部分(ドキュメンタリーとフィクションみたいな二分法がイヤなのでこんな風に書くのだが)とが絶妙にパッチワークされたものというよりも、両者の境目など存在せず、常に真と偽がオーバーラップし続けている、そんなものだと言った方がいい気がする。
例えば、タイトルであるメルキュリアルとは、パリの郊外に立つ一対のビルだ。実際に設計者がワールドトレードセンタービルをモデルとして建築した実在のビル、それがただそこにあることにある種の不穏さを見てとるのは、歴史のせいなのか、ただの私の妄想なのか、それとも映画内で構築されたファンタジーなのか。旅客機の激突によって崩壊したビルが"トレード"をその名に冠していたことと、それを模した建物が商業の神の名を持つこととはどう関係づけられるのか。また現実に存在する、ウクライナ、モルドヴァ、ルーマニアといった地域からの人身売買ルートの末端が、まるでこのビルに行き着くかのように見えるとき、知恵と商いの神であるこの名前はいったいなにを意味するのか。それらの問いは、細かく切り分けられて提示されるのではなく、このビルの神と同じ名を持つ重く有毒な金属のように凝固したかたちで提示される。
昼間のメルキュリアルビルの屋上で、女の子たちは仕事をさぼりながら、タバコを吸ってそこからの眺望について語り合うシーンがある。「あれ、UFOじゃない?」とか、「あのお城はまるで監獄に見える」とか。そこからはすべてが見えると同時になにも見えない。一方で、夜の闇の中で同じ女の子たちが、行先の不安を抱えて身を寄せ合いながら街を徘徊するシーンがある。そこでは小さな明かりで照らされた範囲のものしか見えないが、手で触れられる距離にあるものたちに彼女たちはある種の確かさを感じているようにも見える。『メルキュリアル』という作品を見ることとは、昼の視覚的な世界と夜の触覚的な世界とを同時に生きることだ。

第18回カイエ・デュ・シネマ週間in東京にて2/8、3/14に上映