« previous | メイン | next »

April 30, 2015

『THE COCKPIT』三宅唱
田中竜輔

[ cinema ]

三宅唱は、小さな部屋で2日間にわたって行われたOMSBやBimら若きHIPHOPミュージシャンの作曲&レコーディングの様子を被写体とした最新作『THE COCKPIT』において、真正面に据えられたカメラの前で機材に向かいトラックをつくり続けるOMSBの姿を見つめつつ、まるで鏡に向かい合っているような気分でこの作品の編集をしたと語っていた。それはたんにふたりの人物が、カメラ/モニターというひとつの面を通して擬似的に正対していたという状態を示すだけではなくて、その素材がレコードであるか映像であるかの違いこそあれ、『THE COCKPIT』という作品を介してOMSBと三宅がきわめてよく似た仕事を為していたということの証言でもあるだろう。つまり、すでに録音/撮影されたものを聴く/見ることの先に、それらを選別し断片化し、そして再びひと繋ぎの音楽/映像を再構築するという仕事。それらが『THE COCKPIT』という作品の形式かつ主題を支える骨子であることは言うまでもない。
ひとつのトラックをつくりあげるという作業は、まずもってあるレコードを聴くという行為に始まる。あるフレーズを繰り返し聴き、「俺これ好きなんだよな」と呟くOMSBを見て、その言葉の真意を探ることはおそらく誰にもできないし、たとえ彼が「これはダメだ」と途中で作業を切り捨てるときも、そこに明白な根拠を見出すことは同様に不可能だろう。ワンフレーズ、あるいは1音毎の決断の連続としての作曲行為は、もちろん彼がそれまでに蓄積した膨大な知識や論理や経験の先端にあるにちがいない。けれども指と聴覚の間の齟齬を限りなくゼロに近づけようとするサンプリングの過程は、ときにある種の秩序を瓦解させるような判断や決定の飛躍においてこそ、ある成果をもたらしているようだ。作業を一服しようとしたOMSBに対し、絶妙なリアクションでその待機を継続させることによって、トラックの重要な箇所を見事成立させたBimの鶴の一声は、まさしく作曲行為の最中に唐突に訪れた、ある種の「賭け」めいた跳躍を私たちに体感させてくれる。
『THE COCKPIT』は、そういった彼らの「賭け」の生起する幾度かの瞬間を見事に捉えたフィルムであると言える。その通り。しかしそのことは『THE COCKPIT』のゴールではなくて、あくまで前提だろう。問題は、彼らと同等の「賭け」を、今度は映像の構築という作業において生み出すことである。このフィルムの冒険とは、そしてOMSBと三宅唱が「鏡写し」の関係になるための条件とは、そのための編集という作業にこそ関わっているはずだ。

ではその賭けとはどのようなものか。それはこのフィルムにおける「時間」との関わりにポイントがあるのだと思う。率直に言って『THE COCKPIT』の64分という上映時間は短い。他の映画と比較してというわけではなく、このフィルムの上映時間はおそらく2日間にわたるOMSBらの作業時間に対し10%にも満たないのではないか。ひとつひとつの工程がいったい何時間の準備作業の先にあるものなのか、あるいはその行程が全体の時間に対してどのような段階に位置するのかといった情報を明示すること自体を、このフィルムはあえて拒否しているように見えた。極端に言えば2日間にわたる作曲の様子を撮るとしたとき、10時間や20時間といった上映時間の映画ができあがっても別に不思議ではないし、20時間とは言わないまでも、彼らの労働に費やした時間の量的なリアルさを確保するために、3時間や4時間の映画をつくることは当然の選択肢として立ち上がるだろう。しかし『THE COCKPIT』はそうした方法を選ぶフィルムではなかった。むしろこの映画は、時間の経過に伴ったほとんど自動的なリアルさの付与というものを、自らの意志として徹底して拒んでいるようにさえ見えるのだ。あたかもそのようなリアルのありかたなど、OMSBやBimらの労働にはそぐわないと言うかのようでもある。
一方でこのフィルムの64分という上映時間が、そうした時間の経過に伴ったリアルさを排除し、いわゆるダイジェスト(要約)としての密度を求めた結果であるかと言えば、どうやらそういうわけでもなさそうだ。というのもこのフィルムは、むしろそうした時間の削減に伴って生じる、無数の隙間というものにこそその関心を有しているように思えるからだ。ひと繋ぎの時空をそのままに撮影することでは、リアルさという錯覚によって掘り起こすことのできない何かがある。そのような何かをこそ、『THE COCKPIT』というフィルムは見出そうとしているのではないか。ほとんどの作業が実質的にOMSB個人に委ねられた前半部の固定ショットの繋ぎにおいて見受けられるのは、ひと繋ぎの出来事を裁断しそれが再度ひとつに結びつけられた際に生じる映像の不自然さが、OMSBの作曲における飛躍の瞬間そのものと競り合うかのごとき様である。そして中盤以降のBimとのリリックづくりやレコーディング風景において導入される画面分割やハンディカメラによるクロースアップは、時間と空間の連続性の切断と再縫合をより前景化し際立たせることで、ひと繋ぎの時間と空間(すなわち映像そのもの)の錯覚としてのリアルさの強迫から、被写体であるOMSBやBimの営む創造行為を解き放つべく求められた方法であるように見える。つまりこのフィルムが立ち向かっているのは、映像としてすでに一度は保存された被写体の姿を、たんなる記録に閉じ込めてしまうことから逃れさせるにはどうしたら良いか、そのために映画は何をすべきかという問いなのである

そのことは、おそらく同時期に製作され今もなお進行しているboidマガジンでの連載「無言日記」と重ねて思考すべき問題なのかもしれない。この2作において共通した問題となるのは、いかにして映像を撮るかではなく、すでに撮られた映像からいかにして映画をつくりあげるかということであり、そして乱暴な論理であることを承知の上で付け加えるなら、いかにしてその映画の被写体をフレームという枠から解き放つかのかということであるように思える。そんなことを考えるにあたって『THE COCKPT』の終盤に、とても気にかかったひとつの場面がある。本作をこれから目撃する方々のために詳細は記さないでおきたいと思うが、ほぼ時系列通りに映像が配置されたこのフィルムにおいて、それは唯一完全に時間という拘束から逃れた編集が為された場面であると言えよう。この場面が『THE COCKPIT』というフィルムにおいてどのような作用をもたらしているのかについては、是非実際に作品を見て確認して頂きたい。このシーンにおいて私は、『THE COCKPIT』というタイトルがまさしく私たち観客にとっても直接的な意味を持つ言葉なのだと、強く実感させられた。映画を見ることとは、もちろん目の前にある映像と音響、それらと自らとの関係を思考することであるだろう。しかし同時に、映像自体に映し出されていない、その外側の世界への視線を養うこともまた、映画を見ることにおいては必要とされているはずだ。映画と接することということを、作り手だけの問題に留めてはならない。私たち観客もまたそのような任務を自らに課し「COCKPIT」に座り込み、映画という未知との遭遇に備える必要があるのだと、そんなことを考えさせられたのだった。


『THE COCKPIT』オフィシャルサイト
2015年5月30日(土)〜6月19日(金) 連日21:10より渋谷ユーロスペースにて3週間限定レイトショー!


三宅唱「無言日記」連載中、boidマガジンの購読はこちらから


  • 『やくたたず』三宅唱 松井宏


  • ギヨーム・ブラック×三宅唱 "だからぼくらは映画をつくる