« previous | メイン | next »

September 23, 2015

『みんな蒸してやる』大河原恵
渡辺進也

[ cinema ]

いまユーロスペースで「たまふぃるむナイト」が開催されている。
「たまふぃるむ」を説明しておくと、もともとが多摩美術大学の映像演劇学科の映画制作の授業の一環からはじまったものだったが、当学科がすでに募集を止めてしまったためにそこから派生して在学生やOBを含めた組織となった。彼らは、制作だけに留まらず上映も定期的に行っている。おそらくそのメンバーは10数人ほどで構成されていると思うのだが、誰かが作品を監督すると他のメンバーが撮影、照明、美術等を行うスタッフとして、また出演する俳優として参加することで映画をつくっている。いわば良き時代の映画サークルの活動をいまも行っているということだろうか。今回の「たまふぃるむナイト」では10数本の作品が上映されている。それだけの上映本数があるということは、彼らが年がら年中のように(自分の映画にしろ、他人の映画にしろ)映画制作の現場に携わっていることを意味する。僕は今年の6月にテアトル新宿で行われた「夜のPFF課外授業入門」の中で初めて「たまふぃるむ」の映画をみることになったのだが、自分が考えもしないような映画への自由な考え方が流れていることがとても新鮮に映った。

本年のPFFのコンペでも上映された『みんな蒸してやる』は言葉の選び方が大変おもしろい。エビシュウマイのエビが似合う肌といった台詞から、好きな人にフラレて自分の中に何かが埋め込まれたといった台詞、あるいは自立するためにひとりっきりで案山子になりたいといった台詞。この映画の中で聞こえてくる台詞は、奇抜でありながらどうにも耳に心地よく響く。つい口に出してしまいたくなるようなそんな言葉。
もちろん、案山子になりたい男と彼に恋するエビシュウマイ屋の娘の恋愛模様を描くのだから、よく日本映画にあるようなエキセントリックな恋愛映画であるのだろう。だが単なるエキセントリックな映画なだけではないということは言っておきたい。この映画の特筆すべきところは、それらの台詞が奇抜さや心地よさに留まらず、つまりそうした言葉そのものが人々の口から発せられた瞬間にのみ立ち上がり終わるのではなく、映像によって持続されていくことにある。「埋め込まれた」という台詞が文字通り案山子として田んぼの中に埋め込まれるのであり、「ひとり自立する」という台詞が複数の案山子の映像へとつながり、エビのプリプリ感が顔の保湿シートやサウナに展開される。
先に単なるエキセントリックな恋愛映画ではないと書いた。それはCGやアニメーションなどで逃げるのではなく、実際に出来事が目の前で起こっているからだろう。たとえば男と女が都市が背後に広がる屋上で会い、いつまでも噛み合ない台詞から男が立ち去ろうとするときに女が男の背負った案山子の横棒をつかんで振り向かせるとき、あるいは周囲にたんぼしかない中に立つ男の死角から女が現れ男の見えないところで細工を施すとき。奇抜ゆえにもたらされたそれらの行為の良さったらないだろう。引っ張られてくるっと振り返る男の所作は男女の若々しさと感情がいままであまりみたことがない形で示されている。だから、ときに口をあんぐりしながら、ときにケラケラ笑いながら「バカなこと言ってんなあ」、「バカなことやってんなあ」って思うのだけど、気が付けばついつい癖になってしまっている。
女はいつも死角から不意打ちをくらわす。なぜなら案山子である男はひとつの方向しかみていないから。それがとうとう僕ら観客にまで不意打ちを食らわせようとするのだから、何とも大胆なことよ。

「たまふぃるむナイト」はユーロスペースにて、9/25(金)までレイトショー上映中。
詳細はこちら