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October 3, 2015

『ロバート・アルトマン/ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』ロン・マン
隈元博樹

[ cinema ]

 ある事物の性質やその特徴を言い表すとき、私たちは「らしさ」という接尾語を使うことがある。ここでの「らしさ」とは、礼節を重んじた人物に対する紳士らしさであり、しとやかで品格を備えた人物に対する淑女らしさのことを指している。ただしこれらは、実体に近しいことを表現しているにすぎず、それ自体のことではない。紳士らしさとは紳士に近い存在であり、完全なる紳士ではない。また淑女らしさとは、そのすべてをもって淑女であるとはかぎらないからだ。つまり実体に「らしさ」を接続することは、実体に近づこうとしておきながらも、逆説的にはその実体との距離を曖昧にするための働きを持ち合わせている。そしてこの些細な言葉の綾は、実体である物事や人物を形容し、それらを再定義しようとする試みだとも言えるだろう。
 このフィルムにおいても、その「らしさ」は存在する。それは冒頭の画面上から飛び込む「Altmanesque」(=アルトマンらしさ)という造語であり、そこには

1.現実をありのままに描写 社会批評的 ジャンルの転覆
2.ありきたりな規範に逆らう
3.破壊不能なこと

といった意味が付け加えられている。おそらくアルトマンのフィルムに親しみのある者であれば、これらの3つの意味は何となく理解できるだろう。さらにロバート・アルトマンという映画作家のフィルモグラフィや彼の方法論を辿っていくうちに、群像劇やインディペンデント、脱ハリウッドといった重要なキーワードも見えてくる。しかしこのフィルムは、「アルトマンはこうなのだ」という決定的な何かを定義しようとはしない。冒頭からもわかるように、インタヴュアーはアルトマンと関わりのあったプロデューサーやスタッフ、監督あるいは俳優たちへ「アルトマンとは?」ではなく、「アルトマンらしさとは?」と絶えず問いかけるのだ。そして彼らは、自分なりのアルトマンらしさを「意外性への期待」「くたばれハリウッド」「ひらめき」といったように、彼らの言葉で簡潔に称していく。
 結果的にそれぞれの抱くアルトマンらしさが存在し、長年のパートナーであったキャスリン・リード・アルトマンをはじめ、誰ひとりとして同じ答えに至ることはない。つまりこのフィルムの目的は、アルトマンの実体をつぶさに掌握することではない。アルトマンに付随した「らしさ」によって、彼の実体をより広く定義し直してみることなのだ。アルトマンらしさの探求は、これまでに抱いてきたアルトマンのイメージやスタイルを曖昧に対象化しようとする。そして知られざるアルトマンの実体をさらに別の角度から捉えているのが、このフィルムに時折挿入されるホーム・ムーヴィーの映像だ。
 そこにはアルトマンの息子たちが制作した自主映画が流れ、機内ではしゃぐ家族旅行の様子もあり、海辺から勢いよく飛び出すアルトマンの姿も映っている。彼やその家族が映る映像の断片に、これまで実体として語られてきた映画作家の姿は存在しない。ここに映るアルトマン(もしくは彼らを撮影するアルトマン)とは、言ってしまえば子どもたちの優しいパパであり、妻を愛する夫であり、マリブ海の好きなオッサンだ。そして晩年の親戚一同が介したパーティーでは、2階のガラス窓から彼らを覗き込み、ニヤリと優しく微笑みかけるロバートじいさんの姿がそこにあるのだ。だからその映像を見てしまうと、ロバート・アルトマンという実体を突き詰めるなんて、甚だ無理なことのような気がしてくる。だけどそれは、決してネガティヴな事実ではない。なぜならこのフィルムによって、私たちはアルトマンに近づくためのアルトマンらしさがあることを知るからだ。だからこそホーム・ムーヴィーに残った彼の最後のまなざしは、知られざるアルトマンらしさのひとつであったにちがいない。もしこの映像のあともアルトマンが生きていたならば、自分ではなく、自分らしさについて何と答えていたのだろうか。気がつけばアルトマンがこの世を去り、すでに9年の歳月が経っていたのだった。

ロバート・アルトマン.jpg
© 2014 sphinxproductions

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  • 『今宵、フィッツジェラルド劇場で』ロバート・アルトマン 槻舘南菜子
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