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October 5, 2015

『アカルイミライ』黒沢清
結城秀勇

[ cinema ]

『岸辺の旅』を見ていてすごく気になったのは、浅野忠信と一緒にいないときの深津絵里の生活が、極端に彩度の低い画面で映し出されていることだった。とくに中盤の、旅を中断して東京に帰る場面。ほとんど灰色と言ってもいいような色調で、旅の間に枯れ果てた鉢植えの植物が画面に映る。そのとき、なんだかとてつもなく取り返しのつかないことが起こったような、取り返しもつかないような途方もない時間が経過したような、そんな気がした。映画の誕生から100年以上経って、その間にフィルムに収められた物事は、いまもなお一度映写機にかければ生命を吹き返したように動き出す(一方で記録媒体としてのフィルム自体が持つ、固有の時間経過も同時に映し出されるのだが)。そうした見る者が近しさや親しみを感じうるようなフィルムの色彩や質感、輪郭("粒子"としての光の記録)がある一方で、もっと寄る辺のないもの、こちらを突き放してなにかもっと他のものと関係を持つようなものとしてのデジタル映像があるんじゃないか、そんなことを枯れた鉢植えの植物を見て思った。
雑誌nobodyの連載「長い行進」で、2000年代初頭の、デジタル撮影フィルム上映の作品群のルックが気になる、というようなことを書いたのだが、そのとき一番念頭にあったのは『アカルイミライ』で、『岸辺の旅』公開に併せたシネマヴェーラ渋谷の黒沢清特集で是非とも見直そうと思っていた。で、実際見てみたら思いもしなかったことが『岸辺の旅』とシンクロしていて驚いた。そうそう、この映画でも浅野忠信はやっぱり気づくとそこにいるんだった。
周りの微妙な翳りも全部乱暴に取り込んで一様に真っ暗に塗りつぶしてしまうような黒。明るくてもまるで砂の粒をまぶされたかのような茶色のざらざらした質感。そして決して一度も気持ちよく真っ青になんて晴れ渡ることのない、東京の空。おそらくそうした物事をひっくるめて、藤竜也は「汚くて、みすぼらしい」目の前の現実と、呼ぶのだろう。だが、公開から10年以上の月日が経って、そんな過去の現実をむしろ好ましく見つめてしまう自分がいる。それはノスタルジーではない。確かにあの頃、現実はこんなふうに見えていたのかもしれないが、よく覚えていない。ただ言えるのは、10年以上を経た現在、テクノロジーの進化によってきめ細やかに色鮮やかに曇りなく見えるようになった映像を、ただそれだけの理由で目の前の現実だなんて呼べない、ということだ。藤竜也が「汚くて、みすぼらしい」かもしれないが、「これは私の現実でもある」と言ったようには。
公開当時から、あのクラゲはなんなんだろうと考えていた気がする。なんだかわからないがなんだかすごそうというだけで、橋の上から川にブラインシュリンプをばら撒くオダギリジョーのように、育ててやろうと思っていたような気がする。いま、それよりもっとあのクラゲたちについてわかるのは、彼らが僕らの代表でもなければ僕らを代弁してなんらかの革命を起こしてくれるような存在でもなく、ただ「もっと寄る辺のないもの、こちらを突き放してなにかもっと他のものと関係をもつようなもの」だったということだ。だからもし、いまデジタルをもってして初めて可能になる映画のかたちがあるのなら、あのクラゲのように東京中に繁殖して、そして海を目指して欲しいと思う。我々人間なんかの及びもつかないところで、妖しく光り輝いてほしい。
だから「ミライ」の映画にはこう言いたい。ただ"行け"と。それで20年後か、30年後か、もし海から帰ってくるのなら、僕はそれを待っている。


カンヌ凱旋 黒沢清レトロスペクティブ@シネマヴェーラ渋谷
2015/09/12 ~ 2015/10/09


映画『岸辺の旅』公式サイト