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May 10, 2018

「ワールドツアー」三宅唱+YCAM
結城秀勇

[ art ]

※文章中の太字は山口滞在中の筆者の日記の断片です。全文はNOBODY issue47に載るかもしれないし載らないかも。この文章の"裏面"のようなものとして聞き流すように読み飛ばしてください。
 5月27日まで山口情報芸術センターで「ワールドツアー」が開催中だ。
 「ワールドツアー」とはいったいなんなのか。それは、boidマガジン で2014年より連載されている三宅唱『無言日記』の延長線上にある、スマートフォンで撮られた映像によってのみ構成される作品だとひとまず言うことはできる。だが『無言日記』とは異なり、YCAMスタッフをはじめとする、三宅以外の複数の非プロフェッショナルな撮影者による映像を交えて編集された作品なのだと言うこともできる。そして展示の形式として、隣り合う3つの映像が同時に投影されているのだと言うこともできる。それらはどれも「ワールドツアー」という作品の本質をなしてはいるのだが、一方で「ワールドツアー 」という体験を経験した後では、なにか大事なことを言い落しているような気もする。
 極論を言えば、「ワールドツアー」はそこで上映される映像作品のことだけではない。「ワールドツアー」は映像の展示形式のことだけでもない。コンテンツや形式を含めた、そこで同時並行的に起こるいくつかの出来事の層の間を揺れ動きながら経験することの総体が「ワールドツアー」なのだ、ととりあえず言ってみる。


展示形式


 まずホール中央に向き合うかたちで置かれたふたつのスクリーンがある。そのうちの一方には、三宅その他の撮影者が撮った映像が、オープニングとエンディングを除いて、左・中央・右と3つ並んだかたちで投影される。その映像に伴う音はそれぞれのスクリーン上部のスピーカーから鳴る(ウーファーは上部中央に吊られているのだという)。そしてもうひとつのスクリーンーー一方のスクリーンを見る観客の背後に存在するスクリーンーーには、撮影されたが"前面"(と便宜的に呼ぶが)のスクリーンには映し出されることのない映像が、間欠的に、超高速で映し出される。制作期間中に集まった映像は全部で約20000カット、うち"前面"には約300×3の1000弱のカットが映し出され、"裏面"には残りの19000カットが映し出される。60分で映像は終わり、ループする。しかしそのとき"前面"と"裏面"は反転して、前の60分に映していなかったほうの映像を映し出す。

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〈5/2 16:00頃〉YCAM施設内を案内してもらったのだが、磯崎新設計のこの建築の空間に激しく混乱する。なんと表現すればいいか、外観はガラスを多用した開放的な建築であり、内部に入っていてもその視覚的な印象は変わらない。だがいざ移動しようとすると、すぐ近くにあるように見える場所に行くのにちょっとした迂回が必要だったり、ぐるっと回ってきたはずの場所がさっきいた場所と隣接していたりする。たぶんそれはこの建築における表側と裏側のヒエラルキーのなさみたいなことにも関係していて(おそらく大きく公園が広がる側が表なのは間違いないんだろうが、しかしこの建物のメインエントランスに見える入り口は反対側にある)、ちょっと方向感覚を失う。だがそのヒエラルキーのなさは完全に「平等」といったこととは違う。より正確に言えば、表と裏が同じなわけではなくてそれぞれに違うが、そのどちらが表でどちらが裏であってもどっちでもいい、というような乱暴なフェアネスとでも言おうか。

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 せっかくだから背後にあるスクリーンの映像だけを見てみようとする。だがそれだけを見ようとしても、言い方は変だが、見れない。というのも、映像は常時同じペースで表示されているわけではなくて、なにも映っていないスクリーンの暗闇の中から、「思い出したように」浮かび上がってくるからだ。そしてカットが変わるあまりの速さにその内容をいちいち判別することもできない。ではこの"裏面"はいったいなんのためにあるのか。
 "前面"を見ていると、ふとした瞬間に画面全体が明るくなったような気がする。はじめは入り口だとか外部から光が入ったのかと努めて気にしないようにしていたが(構造上そんなことは起こるはずがないのだが)、何度目かに後方"裏面"のスクリーンの映像たちが放つ光が前方に反射しているのだと気づく。上映環境外部からのノイズかと思ったものは、環境の一部だった。そんなふうに「見れない」はずの"裏面"は、前方スクリーンでいま目にしている映像たちと共に存在している。
 この表と裏の共存のような感覚は、さらにいくつかの仕掛けで補強されてもいる。まずは両スクリーンのちょうど中間地点、プロジェクターが吊り下げられたあたりの真下に、微妙に気になる大きさのガラス板がぶら下がっている。ふと気になってそれを覗き込んでみるなら、タイミングが合えば前述の表と裏の共存の感覚を、視覚的なレイヤー(ガラス越しに見る"裏面"の映像と反射としてガラスに映り込む"前面"の重なり)として目にすることができる。
 また、この展示空間に足を踏み入れたとき、あるいはそこを出るときにしか目にすることはないのだが、据えられたスクリーンの真裏には(この部屋の中央にぶら下がるガラス板と同じくらいの大きさの)小さな窓がある。上映されている映像を見ている間には、その窓越しの景色は見えない。窓から外を眺めている間にはスクリーンの映像は見えない。一方は現在ここにある映像で、一方は過去どこかで撮られた映像だ。だがそのふたつの組み合わせはまったく異質な正反対のものとしてあるのではなく、ぜんぜん違うけれど、でもいまここで確かに隣り合うふたつのものとして、ある。
〈5/2 16:30頃〉あの小さな窓から見える、さっきまでいたかもしれないし、これからすぐ行くかもしれないが、いますぐ手を触れることはできない場所、そういう場所と隣り合うところにいま自分がいるという感覚。


スクリーンに映るもの


 ここからは基本的に"前面"スクリーンに映る映像について述べる。
 見始めてすぐに気づいたのは、3つ並んだ映像が次々と切り替わっていく中で、なんとなく無意識にこれは三宅唱撮影のカットだろうとか、これは違うだろう、とか考えてしまっていたということ。それは別に3つある映像の中の相対的な技術の巧拙を判断していたというわけではなく、これまでの『無言日記』的な構図やモチーフを探そうとしてしまっていた、というか。しかし『無言日記』に比べて圧倒的に情報量が多いので、すぐにそんなことを考えるのをやめる。構図の取り方、解像度、モチーフの選び方、それぞれに違うのだが、もうただ違うだけ、としか言いようがない。もしこれがひとつのスクリーン用に編集されていれば、5、6人いる撮影者それぞれの特色のようなものをもしかして探し出そうしたかもしれないが、3つを同時に見るうえでは、ただ違うのだということがわかりさえすればいい、そんな気になる。
 同時に、三宅以外の撮影者がいることの特徴的な意味も発見する。それはものすごく単純なことで、撮影している三宅を撮影したショットが存在してしまう、ということだ。正確に確認できたわけではないが、たぶん、そのとき三宅が撮影していた映像と、それを撮る三宅の映像が並ぶような編集はあまりなされていなかった気がする。そういう入れ子状の視覚的トリックから解放された被写体としての撮影者のイメージは、それ自体"裏面"的な『無言日記』的イメージに、さらに別の水準の"裏面"を挿入することだと思う。
 3つ並んだ映像は、同日の同時間帯のものが選ばれている。複数の映像が同じような場所で撮影されていることもあれば、ぜんぜん違う別の場所で撮影されていることもある(「ワールドツアー」にはドバイもタイも東京も出てくる。ワールドは比喩ではないのだ)。たかだか24時間程度滞在しただけでこれはあそこらへんだなとわかる場所もあれば、そうでない場所もある。ただ、山口ではない場所も含まれたこれらの映像によって、逆に「想像上の山口」とでもいうべき都市が頭の中で再構成される。
〈5/2 13:00頃〉山口宇部空港より乗合タクシーで山口市内へ向かう。立ち込める霧が、まるで山中の秘境のような景色。YCAM広報の岡崎さんより電話。「近づいたら連絡ください」と言われるも、この山の中の風景がどのくらい目的地に近づいているのかが判断つかない。......と思っていたら、本当に突然いきなり温泉場に入る。

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Googleマップ上はすぐ近くなので岡崎さんに電話する。しかし、この温泉場の風景と、YCAMやNHKや新聞社の支社などがある市街の文化=メディアの中心地が直結しているということが、なかなかアタマで理解できない。

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〈5/3 11:00頃〉入り口を入ると目の前がすぐ改札というクラシックなつくりの山口駅。新幹線もとまらない駅なので交通上の重要性は低いとのことだが、この駅のコンパクトさは山口市中心部のギュッとした構成に大いに関係してる気はする。駅前をちょっと歩けばアーケード街があり、そこにはホタルの棲息する川が流れていて、そこからすぐ行政上の中心地になり、それと隣り合って文化メディア地域があり、さらにその隣に温泉場が連続しているというこの感じ、とても豊かな気がする。そしてそれをアタマで空間把握的に理解するのはちょっと難しい。すぐ隣に別のものがある。それを見ろとかそこへ行けと言われるでもなく、ただそれがあることを肌で感じる感じ。たぶんそれもまた「ワールドツアー」の三面スクリーンから感じることに通じている。

 3つの映像が並行に投影される「ワールドツアー」の編集の一番のキモはおそらく、つねに3つの映像は同時にカットが変わるということだ。これが『無言日記』との最大の違いだと思う。つまり、ある映像は動きや音の強弱の流れの中でそれ固有の編集点を持つかもしれないのだが、「ワールドツアー」の形式においては必ずしも映像の内的な要因によってカットが変わるとは限らない。カットが変わる要因はどこかに存在する。しかしそれはこの映像の内部ではなく、隣の映像にあるのかもしれないのだ。それはたんに外的な要因で編集が決まるというネガティブな意味ではない。いま注視しているひとつの映像にはないだけで、隣かあるいは"裏面"にか存在する原因と共に、カットは移り変わっていく。
 かつて『無言日記2015』について次のように書いた。「『無言日記』のよいところは、誰が埋めたかわからないタイムカプセルのようなもので、地質学的にだいたいこのぐらいの時期だなとはわかっても、中身の細かい順序が自分の記憶とは違っていたりするところ」。しかし「ワールドツアー」における「時間が思ったところにない」感は『無言日記』をはるかにしのぐ。8ヶ月間の三宅の山口滞在中に集められた映像の中で、季節は夏から秋、秋から冬、そして春へと移り変わる。60分の上映時間が終わりに近づく頃、一の坂川の桜が咲き誇る様子が映された後、いままさに見ている「ワールドツアー」の展示と同じ光景がスクリーンに映っている。......本当にバカみたいな感想だが、「あれ、これいまか?」と思った。

 あらためて、「ワールドツアー」とはいったいなにか。ご覧いただいた通り、私にとって「ワールドツアー」は初めて訪れたYCAMという建築の印象と半ば融合するように結びついているし、初めて訪れた山口という都市の印象とも同様に結びついている。しかし「ワールドツアー」がなければ、この建築にもこの都市にもこんな印象は抱かなかったかもしれず、山口に行ったから「ワールドツアー」がこう見えたのか、「ワールドツアー」を見たから山口がこう見えたのか、もはやどちらが表でどちらが裏なのか判断がつかない。
 なのでこんな作品評でも展示の解説でもないなにかとしてしか、「ワールドツアー」を語りようがない。一言でいえば、私にとってそれは文字通りの「ツアー」だった。
〈5/3 16:00頃〉暗いホールを抜けると、すぐ横の壁に寄りかかって小学生たちがゲームをしている。すぐ隣で半年以上の時間をかけて撮影された山口や世界各地の映像が上映されているなんてまったく関係なく。彼らのような使い方をする利用者がいる YCAM はすばらしい施設だと思うし、彼らの姿こそ真に「ワールドツアー」的な気がした。そのことを知ろうが知るまいが、すぐそばで隣り合うなにかと共に彼らは生きている。
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ワールドツアー|山口情報芸術センター[YCAM]にて4/21より5/27まで


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