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October 11, 2018

『眼がスクリーンになるとき』福尾匠インタヴュー
三浦翔

[ book , interview ]

「メディアよりイメージを優先する」態度

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 福尾匠の『 眼がスクリーンになるときーーゼロから読むドゥルーズ『シネマ』 』(フィルムアート社)は、映画をイメージの分類学として論じた『シネマ』から無数に並ぶ映画作品や作家の固有名をほとんど排し、哲学的なシステムとして再構築する野心的な挑戦である。それはある意味で映画史に対して挑発をかけるかのようでもあるが、運動イメージ=物語的な古典映画、時間イメージ=反物語的な戦後の現代映画という「いわゆる」映画史的な二文法を解体し再構築する可能性を探る試みでもある。福尾の試みは、おそらく今日の多様化する映像環境のなかで、映画の可能性をもう一度、哲学的に考え直すための理論的な実践だ。哲学研究だけでなく、批評活動も往復して行う福尾にとって、映画について、あるいは芸術作品について書くとはどのようなことなのか。福尾はいかにしてこの著書を書き上げたのか、映画と哲学の交点、映画が引き出す人間の能力などについて、話を聞かせてもらった。




──まず、この本の出版にいたる経緯についてお伺いしても良いですか。

福尾  2017年の2月に「クロニクル、クロニクル!」という展覧会で「5時間で分かるドゥルーズ『シネマ』」というイベントをしたのですが、その様子がYoutubeに動画がアップされて、それを見たフィルムアート社の山本さんにこれで本を書かないかと声をかけて頂いたのがきっかけになります。はじめは講義録のようにという依頼だったのですが、それは僕があまりにも不安だったので一から書き直すことにしました。それから一年くらいかかって、やっと出たという感じですね。

──学部生の頃は映画研究をしていたと聞きました。関心はどのように移っていったのでしょうか?

福尾 そもそも大阪大学の文学部に入ったのは文学研究がしたくて入ったんです。海外文学の翻訳者になりたかったんですよね。ラテンアメリカ文学の翻訳とかをやりたくて、だったらスペイン語をやらなくちゃいけないんだけど、なぜか第二外国語をフランス語で取ってしまってて。そんな当時、岡山から大阪に出てきて初めてミニシアターというものの存在を知ったんです。こんな小さな映画館なんてあるんだってフラッと入って見たのがルイス・ブニュエルの60年代の作品で、はじめてそのとき白黒の映画を見たかもしれないですけど、どうせつまらないと思って入ったんだけどちゃんと面白かったんです。これが面白いというのはどういうことなのか。本は読めば分かるけど映画の見方は誰にも教えてもらったことがないから、せっかく阪大の美学研究室に映画のことをやっている先生がふたりもいたので、そこに行こうと思ったんです。

 それと並行しておなじ時期にドゥルーズを読みはじめました。僕の指導教員は、映画も教えているけど、もともと哲学科の出身で専門がサルトル研究だったんですよ。その先生が授業でドゥルーズの『意味の論理学』の講読をやっていて、案外自分で読めるということが分かってきたので『シネマ』の邦訳と原文を買って自分で読みながら、映画のことも考えていました。卒論はブニュエルの作品論なのですが、そのなかで「偽なるものの力能」という概念を使いながら作品を論じました。それは僕としてはわりとうまくいったと思ったんです。でも、うまくいったというのは、『眼がスクリーンになるとき』の冒頭で批判することになる哲学の「適用」なんじゃないかと思って。うまいこと当てはめていっちょ上がりみたいになってるけど、これは何を生み出したことになるのかわからないなという迷いがあって、修士に進学するときに哲学研究を中心にやることに決めました。

 だから興味の関心が映画史や映画研究というより、芸術作品や映画作品に対してなんらかの理論があって、それと具体的な作品の関係はどういうものなのか、もっと言えばそれがクリエイティブな関係になるとはどういうことなのかを考えたいという方向に関心が移りました。そのときから『シネマ』の内容がどうこうということと同時に、むしろドゥルーズという哲学者が映画という、哲学に直接関係のある分野じゃないものについて、あんな分厚い2冊の本を書かなければいけなかった必然性みたいなものが知りたかったんです。

──そうすると批評的な、横断的に活躍している人たちにも興味があるのでしょうか。刊行記念の選書フェアでは美術史家のジョルジュ・ディディ=ユベルマンの著書をあげていましたよね?

福尾  ユベルマンが面白いと思うのは、『イメージの前で』で美術史という学問の発生と当時の美術作品を並列に並べて語るところです。それはある意味で、ドゥルーズが『シネマ』で映画とベルクソンを使ってやっていることに近い気がします。映画が19世紀末に誕生して、ベルクソンも同時代に『物質と記憶』を書いた。それをふたつ並べて映画というものを哲学的に考えると同時に、ベルクソン論を刷新するよすがを手にしたわけですよね。それとユベルマンがルネサンスの時期に美術史という学問が発生したことを考える手つきって似ている気がして共感を覚えるんです。



映画と哲学

──素朴な質問ですが『シネマ』は映画について書かれた本なんですか。

福尾 もちろん映画を論じている本ですが、僕が本の冒頭で「フッテージ(素材=足場)」という言葉を導入したのは、ドゥルーズが、これを論じますっていうよりかは、これを使うとこういうものができますという考え方をするひとだからです。だから映画を使うとこういう哲学ができますよという考え方をしていて、『シネマ』という本が映画の本なのか哲学の本なのかというのは、究極的にはドゥルーズにとってどうでもいいことだと思います。僕にとってもそうですね。むしろ僕の本を読んだひとや『シネマ』を読んだひとには美術、建築、写真や文学などいろんな分野に使ってみてほしいし、でも使うんだったら、ドゥルーズが『シネマ』でそうしたように、ちゃんとそこで新しいものが生まれてないとつまんないよねと思っています。

──映画をフッテージにして哲学をするというのはどういうことでしょうか?特にフィクション映画をも基礎にして哲学することにどういう意味があるのでしょうか?

福尾 いちばん簡単な答えは、概念を作ることがドゥルーズは哲学だと言っているので、映画をフッテージにして概念を作るということです。でもなんで概念を作らなきゃいけないのかという問題がありますよね。映画は現実世界とは切り離された虚構だから、それをフッテージにして概念を作ったところで、それは結局何の役に立つのかというのはなかなか難しい問いです。僕が考えるには、ドゥルーズは非人間主義的な哲学と言われていますが、究極的にはやはり人間を相手にしている哲学だと思うんです。なぜかというと、一貫して視覚とか聴覚とか記憶とか思考とか、「能力」というものを基本的な単位として考えているからです。『差異と反復』の「超越論的経験論」だって能力論だし、『シネマ』も能力論です。ドゥルーズは人間のもっている能力というものをいかに別様に組み替えるかということに取り組み続けた哲学者だと思います。映画はそのための装置だったわけです。映画は離れた場所や時間のショットを一瞬にしてつなぐことができるし、視覚と聴覚を分離することができる。こういった「能力の組み替え装置」を通して哲学をすることで、われわれの「人間的な」能力のありかたへの反省をうながすことができます。だからこそ、虚構をフッテージにして概念を作るということはたんなる知的なお遊びなどではなく、べつに映画好きじゃなくても読者の経験にダイレクトに返ってくることだと思います。



眼がスクリーンになるとき耳は何になるのか

──『眼がスクリーンになるとき』では「眼−カメラ」と「眼−スクリーン」という対概念が、視覚の対極的なありかたをしめすものとして出てきます。眼がカメラになることと、それと対比して眼がスクリーンになるというのはどういうことなのでしょうか?まず眼がカメラになるというのはどういうことなのでしょうか。

福尾 眼−カメラ、つまりカメラ的な眼であり、眼的なカメラであるものの説明では、主体と対象のあいだに「距離」が前提され、そこに「張力」が働くという言い方をしました。映画作品のなかでショットをどういう風に分配していくかというときに、古典的な「運動イメージ」の映画においては、主観的か客観的かという軸がすごく重要になります。映画のなかの人物が見ていると想定される映像が主観的で、その人物が見られるショットは客観的です。でもそのショットがもうひとりの人物の主観だとあとでわかることもある。ふたりともを一緒に提示するショットは客観的ですが、それも映画作家や語り手という「主体」の操作を前提としている点で主観的だと言えなくもない。このような揺れ動きのなかで、映像の担い手は機械的なカメラと想定されたり誰かの眼として想定されたりする。でもよくよく考えれば、カメラはたんなる機械なのでそれが何かを「見る」というのはすでにある種の擬人化だし、それと同時に、映画はぜんぶカメラが撮っているのだから映像の担い手を「視点」と呼ぶときには、眼は機械化あるいは抽象化されている。主観と客観、眼とカメラの交代や往復を原理としたイメージのありかたが「眼−カメラ」です。そしてこうした原理を可能にしているのが「感覚−運動図式」です。人物が主体として対象を知覚し、行動することができるという前提が眼−カメラを支えているわけです。古典的な映画、あるいはもっと広く、いわゆる物語的な映画はこの前提のうえに成り立っています。

──そのときにあえて眼がスクリーンになることと対比させるのはどういうことでしょうか。

福尾 今回の本で僕が試みた事は大きく言うと内容面ではふたつあって、ひとつは知覚の外在性。知覚が頭のなにあるのではなくて外にべたっとあるということです。それから身体の後発性。身体や脳が先にあって知覚があるのではなく、知覚というイメージがあってそこから身体が立ち上がるんだというのがもう一つの論点です。ベルクソンの『物質と記憶』と『シネマ』にはこのふたつが大枠の主張として共有されています。

 「眼がスクリーンになる」というのは、感覚−運動的な身体が立ち上がる前の知覚が外在的にベターッとあるだけの状態のことを言っています。イメージと自分の距離がゼロになるということですね。どういうことかと言うと、「コップを取ることができる」というのは、私はここにいてコップがそこにあるという距離があるからですよね。でも私がここにいるという意識がゼロになるぐらいにぼおっとしたりして、知覚だけがあるということになると、「ここ」と「そこ」の距離のテンションみたいなものが失われるわけです。自分が風景のなかに溶けていくとも言えるし、風景が眼にへばりついてくるとも言える。これが知覚の外在性です。そこから後発して身体が立ち上がるわけですが、それはわりと日常的な経験のなかでも感じることだと思います。たとえば手の届きようのないところにコップがあって、誰かの手が当たってそれがテーブルから落ちる。その様子をぼおっと見るともなく見ていた私は、届くわけはないのにとっさに手が出そうになる。こういうことは比較的よくあることだと思います。そのときには知覚から始まって「コップを取ることができる身体」が生まれかけているわけですよね。マリオカートをやっていてコントローラーと一緒に体が動いちゃうひとも、やっぱりイメージが先にあって、そこからあるはずもないマリオ的な身体を立ち上げたくなってしまったということですよね。

 だからこそ『シネマ2』では「身体を与える」ということが問題になる。自分のもともともっている感覚−運動図式が完全に破綻したあとで、そこから新しい身体を立ち上げ直すにはどうすればいいのかというのが、『眼がスクリーンになるとき』の最終章で取り組んだ問題です。

──眼がスクリーンになると言われると、やはりシネマの問題は視覚なのかという気にもなってしまうのですが、実際には『シネマ2』のなかで扱われている映画はゴダールやアラン・レネであれ音響や言葉も重要な要素になってくるわけですよね。眼がスクリーンになるとき、耳の問題はどうなっているのでしょうか。

福尾 それは難しい問題で、眼がスクリーンになるとき耳はマイクになるかと言えば違うんですよね。僕の本の第4章でくわしく扱っている問題ですが、ドゥルーズは視覚的なイメージが「物」であるのに対して、音声的なイメージを「発話行為」という側面から論じています。つまり「眼と耳」のカップリングではなく、「眼と口」のカップリングがなされているわけです。視覚的なイメージが出来事を折り重ね埋却していく「地層」として機能するのに対して、音声的なイメージは埋もれた出来事を浮かび上がらせる発話行為として位置づけられています。ひとことで言えば、視覚的なイメージが物質的なものに、音声的なイメージが非物質的なものにかかわる。物質的/非物質的という二元論は、ベルクソンにおいては「イメージ」と「記憶」に対応します。だからこそ『物質と記憶』なわけですね。しかしドゥルーズは『シネマ2』でベルクソンの記憶論を、どうやら物質的なものと同一の平面であつかっている。この「読みかえ」にかかわる議論は『眼がスクリーンになるとき』のひとつのハイライトなのでぜひ読んでみてほしいのですが、とにかくドゥルーズは記憶さえも映画ではイメージになると考えている。それに対して発話が非物質的なものを担うものとして出てくるわけです。「物質と記憶」(ベルクソン)から「言葉と物」(フーコー)へ。映画を通じてドゥルーズがその後展開するフーコー的な問題系がせり出してきます。映画はまさに視覚と聴覚を分離する装置であり、そこには可視的なものと言表可能なものが権力によってどのように配分されるかというフーコー的な問題が凝縮されています。

──映画と夢の関係についてはこれまで様々なことが語られてきましたが、福尾さん、あるいはドゥルーズの理論のなかではどのように位置づけられるかお聞きしたいです。

福尾 シネマでは夢は感覚−運動的な運動イメージに割り当てられています。一見するとこれは奇妙かもしれませんが、ドゥルーズが『シネマ』でベタ褒めしているジャン・ルイ・シュフェールの『映画を見に行く普通の男』のなかに「映画は夢ではなく不眠症に似ている」という言葉があります。夢に似ているというのは、想像的な投影の領域として夢があるということですよね。夢は映画のなかでどういう機能をもつかというと、現実だと思っている出来事があって、はっと起きて夢だったということになる。それと現実のギャップみたいなものがあって、それによってその後の人物の行動が決定されたり何かを思いなおしたりするわけですよね。そこでは現実的なもののなかで回っているエコノミーと想像的なもののなかで回っているエコノミーは対立するものとして想定されている。だから『シネマ』では夢イメージは運動イメージ的なものとして扱われている。さきほど述べたように運動イメージは主観的=想像的なものと客観的=現実的なものとの対立に根ざしたイメージのありかただからです。

 それに対して、時間イメージのひとつのタイプである結晶イメージでは想像的なものと現実的なもの、主観的なものと客観的なものが識別不可能になるという言い方がされます。それをドゥルーズは不眠症的な経験と重ね合わせている。ずっと現実のなかにいるとも言えるし、ずっと夢遊病的なふわふわした世界にいるとも言えるような状況として時間イメージ的な映画の話をしていますね。



運動イメージと時間イメージの関係について

──『シネマ』における運動イメージと時間イメージの対比が、物語映画としての古典映画と非物語的な戦後の現代映画という対立を作ってしまってきたのではないかと疑っているのですが、『眼がスクリーンになるとき』でドゥルーズの議論のなかから時間イメージが物語論として扱われるというのは重要な問題提起だと思いました。

福尾  そうですね。時間イメージを物語論としてちゃんと読むというのは去年の講義の段階ではできていなかったことで、今回の書き下ろしの作業のなかで僕がいちばん達成感を覚えているトピックのひとつです。僕自身も時間イメージ=反物語的という図式で片付けてしまっていたところがありました。ドゥルーズ研究としても、『シネマ2』の「偽なるものの力能」の議論を物語論としてちゃんと読むというのはいままでなされていなかったことだと思います。しかもそこで取り出された時間イメージ的な物語論はいまだにアクチュアルなものだと思うんです。あの時間の扱い方や主体と対象の関係の在り方は、映画だけじゃなくて美術でも文学でもそうだと思うけど、現代的な意味での物語とか物語るということに響き得るものになったんじゃないかなと思います。

──あえて物語と呼ぶことの意味ってどういうことなのかなと思いました。

福尾  遠回りして答えると、いまポスト・トゥルースということが言われていて、ドゥルーズの言う「偽なるものの力能」の議論ってポスト・トゥルースでしょと捉えるひともいると思うんですよ。ポスト・トゥルースで良いんだと取られてもおかしくない概念だから。しかもポスト・トゥルース的な状況はポストモダンの思想が準備したとも言われてしまうわけで。でも、それは『シネマ』をちゃんと読んでいないからそうなるんだと思うんです。「偽なるもの」にどういう力能があるのかというと、そこでトゥルースが前提されるのではなくて立ち上げられるべきものになり、形式が作り上げられるべきものになるということをドゥルーズは言っています。いわゆるポスト・トゥルース的な状況のなかで幅を利かせているひとたちは基本的にはナショナリストだったりミソジニストだったり、要するに既存の形式に乗っかっているひとたちです。国家という形式に過剰に固執したりだとか、自分が男性であるということに過剰に固執したりする。それは『シネマ』の語彙で言うと「真なるものの形式」に依存しているということです。その形式はたくさんあるから、それぞれの形式のなかでの真なるものって、いわゆる客観的で普遍的な真なるものではない。それを受けてポスト・トゥルースと言われているわけですね。形式の数だけ真理がある。ドゥルーズが言わんとしてるのはまさにそういうものこそを乗り越えるために「偽なるものの力能」を考えなければならないということです。それは単純に間違っているものを称揚したいというわけじゃなくて、真理や形式がちゃんとそこで新しく作り出されることが目指されています。そのなかで既存の形式は壊れたり変形したり混ざったりする。

 だからこそフィクションの話をするときも、モデルとして使うんじゃなくって力能としてフィクションを使わなければならないと言われています。モデルとしてのフィクションというのは映画の組み立て方もそのひとつですよね。切り返しショットをこういうふうに撮ると映画っぽく見えるみたいな。それによってひとつの完結した世界ができたことにしてしまうというのはモデルとしてのフィクションですし、小説の書き方もモデルとしてのフィクションですよね。でもそういう既存のモデルとしてフィクションを使うのではなく、そこから新しい形式や真理が立ち上げられるような力能としてフィクションを使わなければならないというのが「偽なるものの力能」、あるいは時間イメージ的な物語の議論のなかで言われていることです。

 そのことと、物語というものをどういう風に考えるかという問題はつながる話だと思っています。それはひとつにドゥルーズは History という言葉を使っていないということです。フランス語にはイストワール(histoire) という語に歴史と物語というふたつの意味があるからややこしいのですが、あくまでもドゥルーズは「物語」の話をするときにレシ(récit)やナラシオン(narration)という概念を使っている。これは基本的には、ひとつながりの出来事の連鎖があるということをそこで含意しているよりかは、単純に「語る」ということをこのふたつの言葉は意味しています。日本語で言う意味での「物語」は誰かが語るものであり、それと同時に出来事がひとつながりの連鎖をもっているということのふたつが含意されていると思います。ドゥルーズが時間イメージ的な物語論で重視しているのはそのうちの「語る」ということです。さきほどの「発話」にかかわる話ですね。だから物語というものからストーリーあるいはヒストリー的なものを一旦切除したあとで、語ることに重きを置いたときに何が考えられるのかということをわれわれは『シネマ2』の物語論から読むことができて、僕の本の第5章で書いたことはそのヒントになると思います。

 時系列的な歴史から解放されたものとしての物語、あるいは「語り」は、主体と対象という形式からも逃れます。語る者と語られる者が識別不可能になることをドゥルーズは「自由間接話法」という概念で示していますが、そこで生まれる物語的なものの把握は「ポスト・ポスト・トゥルース」に向かう足がかりになると思います。


「メディアよりイメージを優先する」態度

──最近の映画で興味のあることを教えていただきたいです。

福尾 最近の映画は音が面白いですね。効果音とセリフと音楽が映画の音の三つの位相として大きくあるじゃないですか。それが混ざるんですよね最近の映画って。たとえば『トランスフォーマー』(2007)だと、モノがガチャガチャ壊れる音やオートポッドが組み上がる音と音楽が識別不可能になる瞬間がけっこうある。音楽としてその音が当てがわれているのか単純に物がぶっ壊れたからその音が鳴ってるのかわからない。

 最近でいちばん典型的だったのがヴィルヌーヴの『メッセージ』(2016)です。まず、ヘプタポッドの鳴き声とブーンというヨハン・ヨハンソンの映画音楽とが区別が曖昧で、そもそもヘプタポッドの声が声なのか音なのかも微妙ですよね。『メッセージ』は映画の内容的にはやっぱり文字言語を分析しなきゃいけないってなるじゃないですか。音を聞いても意味はないから、文字を解析しようと主人公は頑張る。でも面白いのは、未来がフラッシュフォワードする瞬間はぜんぶ音がきっかけなんですよ。ガラスに手を当ててブーンって大きい声なり音なりをヘプタポッドが鳴らすと、意識がバーンと飛んで自分の娘が映像として提示される。なんで声は無視すると言ったのに、音きっかけで飛ぶのかというのは素朴な疑問としてあります。つまり『メッセージ』では映像の視覚的なイメージのレベルで異なる位相を跨ぐために音が使われていて、しかもそれが声なのか音なのか音楽なのか、識別不可能であることが気になっているポイントですね。ほかにも音楽と効果音が混ざるというのは『マッドマックス』(2015)が露悪的にそれをやっていましたし、『ベイビードライバー』(2017)もそうでした。

──これからの仕事の方向性などがあればお聞きしたいです。

福尾  映画だと「ガラス映画」ですね。映画のモデルを影絵でも鏡でもなく、ガラスとして考えるというひとつの大きな作業仮説があります。映画のモデルが影絵だっていうのは、素朴なリアリズムですよね。鏡というのは精神分析モデルで、対象に自分を投影したり映画館をお母さんのおなかの中と考えたりするようなモデルです。それとはまったくべつに、ガラスというのは外の景色が見えると同時にこっち側も映り込むものだから、客観的なものと主観的なものが同時に存在していて、言ってしまえば切り返しショットがひとつの面の中に圧縮されているんですよね。切り返しとかモンタージュを映画の根源的な位相に置くとすれば、ガラスを映画のアーキタイプとして考えることができるんじゃないかと思っています。その主観的なものと客観的なものの同居ということと、同時にガラスによって視覚的な距離と音声的な距離の分離についても考えることができる。ガラスの向こうは見れば近くだけど音は聞こえないわけだから。それこそヴィルヌーヴの『メッセージ』はそういう意味では「メタ・ガラス映画」です。

 あとガラス映画論は、「映画批評」というフォームの拡張可能性を考えるものにもなると思います。映画批評って基本的にはつねに制度批判が作品や展示とくっついている現代美術とちがって制度論と食い合わせが悪いですよね。でも映画批評には映画批評にしかないフォームのようなものがあって、それを僕はひとことで言えば「メディアよりイメージを優先する」態度だと思っています。『眼がスクリーンになるとき』に書いた話で言えば、ベルクソンの映画装置批判の話をドゥルーズが映画=イメージの話にスライドさせたのもそうした態度にかかわることだと思います。蓮實重彦の「表層批評」もその系譜に数え入れることができるでしょう。こうした系譜に対して、「いや、メディアや装置の話もしましょうね」という態度もあるだろうけど、「見て、書く」というきわめてシンプルな営為への強い反省性がイメージを優先する態度にはあります(*これについては福尾の「見て、書くことの読点について」(『新潮』2018年9月号)を参照)。見ることと書くことのあいだに穿たれているのもガラス的な識別不可能性です。現実的なもの(知覚)なのか想像的なもの(記憶)なのかわからないという点では結晶イメージ的だと言ってもいい。ガラス的なものが映画のなかでどのように機能しているかを考えると同時に、映画を見て書くときに機能するガラス的なものについても考えたいです。そしてそうしたフォームを映画に閉じ込めるのでなく、美術や文学、そしてコミュニケーション一般を考える手立てにもしたい。

 それからもちろんドゥルーズ論も書こうと思っています。『シネマ』を中心に据えたドゥルーズ論はどのようなものになるのかというのは興味深い問いです。内容的には先ほど話したように能力論を主題にしたものになると思います。発話と視覚、言葉と物、そして哲学と芸術の関係性がドゥルーズにおいてどのように考えられ、機能しているのかということを前期から後期まで串刺しにして考えるという計画を立てています。そこでもやはりドゥルーズはいかにして「見て、書く」ことに向かったかということが問題になります。 哲学研究と批評を往復しながら、しかし研究の「実践的応用」として批評をするのでもなく、批評の「理論的背景」として研究をするのでもなく、理論は実践であり実践は理論であり、統合と分裂をつねに同時に起こすような感じでやっていきたいですね。

──今日は、ドゥルーズを媒介にして哲学と映画の関係だけでなく、映画について理論的に書くことに纏わる「適用」の問題を、福尾さんがどのように向き合って展開しているのか詳しくお聞き出来たと思います。特に、映画批評の生み出したフォームを他の領域へ応用していく可能性については、僕もぜひ持ち帰って考えていきたいと思いました。どうもありがとうございました!



取材・構成 三浦翔


IMG_0333.JPG福尾 匠(ふくお ・たくみ)

1992年生まれ。横浜国立大学博士後期課程、 日本学術振興会特別研究員(DC1)。現代フランス哲学、 芸術学、映像論。論文に「映像を歩かせるーー佐々木友輔『土瀝青 asphalt』および「揺動メディア論」論」(『 アーギュメンツ#2』、2017年)など。初の単著、『 眼がスクリーンになるときーーゼロから読むドゥルーズ『シネマ』 』(フィルムアート社)を2018年7月26日に刊行。