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October 23, 2018

『アンダー・ザ・シルバーレイク』デヴィッド・ロバート・ミッチェル
結城秀勇

[ cinema ]

 「犬殺しに気をつけろ」という落書きを消そうとする店員のガラス越しに揺れる胸、列に並ぶ女性客たちの腰のあたりをナメて、カウンターの後ろで談笑するふたりの女性店員のアップへ切り替わるスローモーション、そしてそれを見つめるアンドリュー・ガーフィールドの眠そうな目。そんな『アンダー・ザ・シルバーレイク』の冒頭を見ながら、なんとなくガス・ヴァン・サント『パラノイドパーク』のことを思い出していた。あの映画では、アップのカットがたいていものすごい勢いで男の子も女の子もキラキラしてて、これって大部分が恋に落ちるはずのショットで出来てんじゃん、と驚いたもんだなあ......と。対する『〜〜シルバーレイク』は、恋に落ちるってほどキラキラしたものでもないけれど、もっとダウナーな、とろーんとした時間の中で、ガーフィールドは接写ぎみの視界で構築される世界のほとんどのものに見惚れている、ように見える。
 『パラノイドパーク』が、魅力的な異性(あるいは同性)との出会いだからその後の展開を暗示させるためにキラキラ恋落ちショットを乱発するのではなかったように、『〜〜シルバーレイク』もこの冒頭シーンに出てくる女性たちがその後重要な役割を果たすなんてことは(気づいた限りでは)ない。それにしてもガーフィールドが見惚れているポイントはどこなんだろうか。胸なのか、尻なのか、顔なのか。いったいこの狭い視界のどこにどんなサインを見て取っているんだろうか。傍目にはよくわからない微かなサインを見つけ、それらが織りなす背後に隠れた巨大な体系を探るのが『〜〜シルバーレイク』という映画なのだ、などともっともらしいことも言えそうなのだが、しかしそんなことよりもっと重要なことに、このワンシーンを見ただけで観客のすべては気づく......。「こいつ、女なら誰でもいいんじゃね?」と。
 たぶんそれより重要なことなんて、この映画にはなにもない。けなしているのではなく、絶賛している。この作品の魅力は、LAの裏側で日々進行する巨大な陰謀だとか、突然失踪し事故に巻き込まれたサラ(ライリー・キーオ)になにが起こったかという謎解きにあるのではなくて、そうしたものによって駆動されることでしか出会わない者たちひとりひとりに、観客もまたどこか見惚れずにはいられない点、なんとなしの好意と欲望とを抱かずにはいられない点にある。サム(ガーフィールド)の日常は、目的を欠いた、失望と倦怠に満ちたものだ。犬は殺され、大切なものが無くなり、家賃を滞納した部屋からいまにも追い出されそうで、金持ちたちは自分たちだけの領域にいて、そこらじゅうにスカンクがいる、そんなどうしようもない世界に彼は住んでいる。彼の空虚な日々を埋め合わせてくれるのは、個人のスケールを超えた世界の秘められた謎などではなくて、あくまで目に見えて言葉を交わせる、ちょっと風変わりだけどせいぜいその程度の、普通の人間たちなのである。コスプレ姿でオーディションを繰り返すサムのセフレ、偽『アメリカン・スリープオーバー』に出演する「シューティング・スター」の女優たち、風船ダンサー、富豪の娘......、彼女たちは「すでに死んだ女」サラの代替物などではないし、映画を素直に見る限り、サムは彼女たちのことが"それはそれとして"好きなはずなのだ。
 サムを見ていて思い出すのは、『アメリカン・スリープオーバー』で、スーパーマーケットで見かけた少女を延々探し続けるロブ(マーロン・モートン)のことだ。やってることはただのストーカーなうえに、途中で会う幼馴染の女の子や友達の姉ちゃんや姉ちゃんの友達に対してもだいぶまんざらでもなさそうな風で、そのクセ「おれやっぱあの子を探さないといけない」とカッコつけるあいつが、ただただキモいはずなのになんかカッコいい。スーパーマーケットの女の子は彼にとって"特別な"存在で、彼女のことは探さなければならない。でもかと言って、その他の女の子たちがまったく価値を失うわけではないし、"特別な"女の子の代替物になり下がるわけでもなく、やっぱり彼女たちは彼女たち自身のままで素敵なのだ。
 『アメリカン・スリープオーバー』がらみでもうひとつ思い出すのは、双子の姉妹に会いに行く大学生の男のこと。その双子のどちらかはかつて自分のことが好きだったのはわかっているが、どっちが好きだったのかはどっちかに告白してみるまでわからない、というなんだかシュレーディンガーの猫みたいな状況に置かれた男は、どちらが自分を好きなのかわからない総体としての双子というイメージのまま愛するという戦略と、間違うリスクを負ってでも自分を好きだったのがどちらかを特定するという戦略の間で揺れ動く。ふたつの似通ったイメージを、その類似においてと差異においての両方の方法で愛そうと試みる男の姿は、スーパーマーケットの少女の姿を追い求めつつもすれ違う他の少女たちに魅了されることも拒まないロブの姿にも通ずる。同じことが『〜〜シルバーレイク』のサムにも言えて、彼が夢に見る、プールで泳ぐサラの顔には、彼女が大好きな『百万長者と結婚する方法』のマリリンと同じホクロがある。夢に見る彼女のイメージは、すでに彼女自身のイメージと彼女が好きな女優たちのイメージが渾然一体となったものだ。突然のマスターベーションのためにベッドの上に用意された、サラのポラロイド、1970年7月号の「プレイボーイ」、その他のエロ本といった断片的なイメージの集合と同じように。
 『アメリカン・スリープオーバー』、『イット・フォローズ』、そして『アンダー・ザ・シルバーレイク』と一作ごとにまったく違ったジャンルの作品を撮っているように見えるデヴィッド・ロバート・ミッチェルだが、実際のところたったひとつのことについてしか映画をつくっていない。つまり我々の欲望について、である。平板な日常を満たす、薄汚く見すぼらしい我々の欲望と、もしかしてひょっとするとそれとは別のかたちの欲望もあるんじゃないのか?という可能性に対する欲望と。『アメリカン・スリープオーバー』にしろ『イット・フォローズ』にしろ、特にすごくイケてるというわけではない平凡なアメリカの少年少女が描かれるわけだが、彼らは意外とけっこうリア充だ。だが、デヴィッド・ロバート・ミッチェルが本当に素晴らしいのは、彼ら少年少女を自覚的にしろ無自覚的にしろリア充であることを拒まない存在として描くと同時に、ある意味リアル以上のなにかを求めている、いわばシュールレア充でもあらんとする存在として描いてもいることだ。私たちの欲望は、現実か超現実か、などという二択では満たされない。スーパーマーケットの少女と、彼女を探す間にすれ違う少女たちを、それぞれ異なった次元で愛すこと。総体としての双子と、姉あるいは妹という個別の人間を同時に愛すこと。すでに死んでしまった女と、彼女につながるヒントをくれる女たちを、"それはそれとして"同時に愛すこと。
 消えた女、カート・コバーン、マリオやゼルダといったニンテンドー、ハリウッドの墓地の下に眠るスターたちと、彼らが生んだ映画。そうしたとっくの昔に過ぎ去ったものの影を追い求めて、サムはいままさに過ぎ去らんとしている人やものと巡り会う。すでに過ぎ去ったものを通じてしかまさに過ぎ去ろうとするものに出会えないのか、まさに過ぎ去ろうとしているものは本当はもう過ぎ去ってしまったものに過ぎないのか、それはわからない。でもサムとサラの間に生じる、実質的に死後の世界へのテレビ電話のような再会は、感動としか言いようのない感覚を与えてくれる。過ぎ去ったものは過ぎ去りつつあるものと混じり合う。そのとき彼の(そして私たちの)薄汚い欲望は薄汚い欲望のままでありながら、なにか別の欲望でもある。
 そして映画を見終わっていま、もはや決定的に過ぎ去ってしまったサラの面影を思い出しつつ、それが彼女と出会うまでに出会った女たちの面影と混じり合うのを感じる。マリリンのホクロのように。だがそれは彼女と他の女たちの見分けがつかなくなることを意味しない。だからサラの面影を忘れることがないのと同じくらい、友達とビールを飲みながらドローンで盗撮した「元下着モデル」のあの涙を、間違ったときに間違った場所で出会ってしまったあの涙のことも、忘れることができないだろう。

全国公開中

『アメリカン・スリープオーバー』は現在アップリンク渋谷にて上映中

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