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January 8, 2019

『マチルド、翼を広げ』ノエミ・ルヴォウスキー
池田百花

[ cinema ]

 奇妙な言動を繰り返す母としっかり者の小学生の娘マチルド。母は家を空けることが多く、学校でも周囲になじめないマチルドはいつも一人で過ごしていたが、ある日彼女のもとに言葉を話すフクロウがやってくる。大人であることや母親でいることから逃れようとするかのように常に逃げ去りさまよう存在である母と、そんな母の娘として囚われの身となっているマチルド、そしてそこに訪れるフクロウもまた籠の中に囚われている。フクロウの言葉はマチルドにしか聞こえないが、それはマチルドの心の声や理想というわけではなく、彼女が知らないことを客観的に賢明に教えてくれる。マチルドは母に振り回されながらも彼女のことを愛しているけれど、母に対して直接想いをぶつけることはなく、言葉を持つフクロウの前でだけ感情を表に出すことができる。父親が不在の家で母と二人で過ごしていたマチルドにとって、フクロウは救いのような存在で、フクロウとマチルドの関係はほかの誰との関係とも違う。そして物語の最初にマチルドのもとにフクロウがやってきてから最後に旅立っていくまでの間に、彼女は少女から大人になり、気づけば話すフクロウも言葉を発しなくなっていて、マチルドと母との関係も変化する。
 お互いに深く愛しているにもかかわらず、あるいはその愛が深すぎるがゆえに、この母と娘は長い間離れて暮らすことになるのだが、再会した彼女たちが叩きつけるような雨の中でダンスを踊る場面は強く印象に残る。原始的な動きを織りなす二人の間に言葉は交わされないが、お互いに身体をぶつけ合うように踊る様子は会話のようでもあり、これまで彼女たちのうちにあったあらゆる感情が、この一瞬にして深い愛の中に溶けていく。そして雨の水や地面から跳ね返る土という水や土のイメージもまた、物語の中でマチルドが語る神話的な(ミレーのオフィーリアを思わせる)ストーリーや幼い頃のマチルドが学校の理科の授業で使う骨格模型を森の中に埋葬する場面などともつながって、マチルドの少女時代からの物語を形成する重要な要素になっている。ダンスのあと、母と娘は長く離れていた日々のことを詩にしてレコーダーに吹き込んでいくのだが、ここで二人の間で交わされる言語は、身体的なものから文字通り言葉へと変化している。マチルドが小さかった頃、母と娘の間にいたフクロウや父は言葉を有する存在だったが、ここで彼女たちの媒介となっているレコーダーは、それ自体は言葉を持たず、母と娘自らが言葉を生み出していく。だからこの時彼女たちを見つめているフクロウは、もう話すことはない。
 この作品の原題にある"demain"(明日)という言葉は、映画の中で何度も繰り返される。母は不可解な行動の後に、明日はちゃんとやり直せる、明日になったらマチルドに謝ろうとつぶやく。母の想いはいつもここではなくどこかほかのところに向かっていて、常に逃げ去っていく彼女に娘の手は届かないし、彼女にもう一度手を差し伸べようとするかつての夫の手も振りほどかれてしまう。そして彼女が口にする「明日」も来ることはない。しかし時が過ぎて母と娘が再び会う時、娘は母をしっかりと抱きとめ母もそれに応えていて、マチルド自身も自らを囚われの身から解放することができる。この時がきっと母の言っていた「明日」なのであって、この一日の「明日」のために娘が母に捧げた愛が実った時、彼女たちがそれぞれに生きてきた日々が新たに輝き出すように思う。

1月12日(土) 新宿シネマカリテほか全国順次公開

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