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January 20, 2019

『あなたはわたしじゃない』七里圭
結城秀勇

[ cinema ]

 こうしてこの作品についてなにかを書こうとするときにすでに頭を悩ませているのは、作品のタイトルは『あなたはわたしじゃない サロメの娘 | ディコンストラクション』と副題込みで書くべきなのかどうかということだ。あった方がコンテクストはよくわかるが、しかし監督のオフィシャルサイトでは副題なしで表記されていて、だから正式な表記として、「サロメの娘 | ディコンストラクション」部分を前々作の「(in progress)」のように括弧にくくるべきなのか、あるいは前作の「remix」のように外にさらけ出すべきなのかも、測りかねている。つまり、この一連の3作は、はじめは冒頭にあったはずの「サロメの娘」が、次いで「アナザサイド」と順序を反転し、三度目はそれがあるものなのかないものなのかさえよくわからないものになる、というプロセスにあるのだとたとえば言ってみることだってできる。
 このタイトル考察と同じやり方で、今回のユジク阿佐ヶ谷での特集上映の際にシリーズ3作を時系列順に見て、映画の内容について分析すればそこから引き出せることがかなりある気がする。この部分にこのレイヤーが重ねられ、こことあそこが置き換えられ......といったようにひとつひとつ確かめていくことで見えてくるものが多々ある気はする。するのだがしかし、それが『あなたはわたしじゃない』という一本の映画をタイトルとして書く文章にふさわしいことなのか、またそれを自分がやりたいのかと言われると、うーんと悩んでしまう。そうしたやり方で書くことは、2017年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で『アナザサイド サロメの娘 remix』を見たときに書いたようなことを補強するために『あなたはわたしじゃない』という作品を使ってしまうことなのじゃないのかとも、思ってしまうのだ。
 だから『あなたはわたしじゃない』という作品を遅ればせながら初見で見た感想を基に文章を書こうとするなら、それは青柳いづみの存在を中心としたものになる。前二作でも声を響かせていた彼女が画面に姿を現すとき、異様になにかがぴたりと腑に落ちる気がする。彼女の舞台を見たことはないので、映像に被さる声が彼女自身のものであるかどうかなんて判断がつくはずもないのに、それは起こる。上映後の長宗我部陽子とのトークで監督が、本作のラストシーンは「実は」当初から想定していたと語るとき、その後個人的に質問した際に、青柳いづみの映像としての出演も「実は」当初から想定していたと語るとき、やっぱりそうなんですねとなにかがわかった気になる。前二作よりもテキスト内の登場人物と映像としての登場人物との関係性をより把握しやすい本作において、さまざまなものがあるべき場所に落ち着いてシリーズは「完成」したのだ、と言ってみたくもなる。声として鳴っていたもののもとに、遅れて映像がやってくる。このシリーズのコンセプトはまさにそれじゃないかと。
 だが結局この監督の語る「実は」こそがくせものなのだと観客はみな薄々は気づいていて、でなければ本来は「構築」の概念にこそ近いはずの本作に「ディコンストラクション」という副題を(それもあるのかないのかよくわからないかたちで)つけるはずがない。だから前段でテキストと映像の登場人物の相関関係がわかると書いたにも関わらず、私にはタイトルにある「あなた」と「わたし」の関係性はわからない。『あなたはわたしじゃない』というこの作品の中心にあるのは「あなた≠わたし」という二者間の関係ではなく、むしろ自分を取り囲むあらゆる環境に対して抱く「わたしじゃない」という断言の方だ。母と娘がいて、母はかつて娘であったし、母の母もまた娘であったが、しかし娘がいずれ母となるとは限らない。目の前に映るひとつの問題は、その根を探ることでそれこそ無限にセットバックしていくのだが、しかし「わたし」がその体系の一部をなすのかどうかはわからない。もっと言えば男性の観客である私はそもそもその体系の一部をなすことがない。登場人物のひとりは、たとえ姿が変わってしまっても自分のことは自分だとわかる、と言う。だが本当にそうなのだろうか?前作『アナザサイド サロメの娘 remix』を見たときにはそう思った気がする。だが本作は、もしかして姿を変えた自分かもしれない誰かを見つめながら、ひたすら「わたしじゃない」とただただつぶやき続ける、そんな体験に近い気がする。
 久しぶりに本作を見直したという上映後のトークで、長宗我部陽子が「私が演じたのは「わたし」じゃないんだな、っていうことはわかりました」と語っていたのがなにより印象的だった。

「あなたはわたしじゃない+七里圭監督特集上映」は1/25までユジク阿佐ヶ谷にて

  • 山形国際ドキュメンタリー映画祭2017日記