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February 8, 2019

《ペーター・ネストラー監督特集in京都》 2018年12月3日@京都・出町座

[ talk ]

2018年11月末に来日したペーター・ネストラー監督が、京都で行なったトークショーを、今回複数回に渡って掲載させていただけることになりました。
まず掲載させていただくのは、12月3日に京都の映画館・出町座での『ミュールハイム(ルール)』、『時の擁護』、『アーノルト・シェーンベルクの《映画のための伴奏音楽》入門』上映後に行われたトークショーです。この3作品はストローブ=ユイレ関連作品として組まれており、ネストラー監督からみた若き日のストローブ=ユイレふたりのこと、2007年に作られたふたりについてのドキュメンタリー『時の擁護』について、そして彼らの作品について話されています。
また今回、掲載にご協力いただきました、渋谷哲也さん、出町座、ヴュッター公園、同志社大学今出川校地学生支援課にこの場を借りて感謝いたします。


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渋谷哲也 今日の上映はストローブ=ユイレ特集ということで組まれました。最初の『ミュールハイム(ルール)』という作品は、ネストラー監督の最も初期に作られた短編ですが、この作品も含めて今日上映した3作品についてお話いただきたいと思います。

ペーター・ネストラー まず、本日上映した3作品は組み合わせが非常にうまくいっていると思います。ここで上映できて嬉しく思っています。

ジャン=マリーとダニエルはこの『ミュールハイム(ルール)』をとても気に入ってくれていました。1960年代初めの頃に私はこの映画を撮り、ちょうどその時にジャン=マリーとダニエルは『マホルカ・ムフ』(1962)という最初の短編を撮っていました。
その後、ジャン=マリーは、『ミュールハイム(ルール)』について文章を書いてくれて、そこでこの映画を「ミゾグチ的な映画」というふうに語ったのは誇らしいことでした。ただし、そこにストローブは以下のことも付け加えています。「ネストラーがこの映画を作ったときには、ミゾグチはみていなかったのだが」。

そしてふたつめの映画『時の擁護』ですが、この作品はストローブ=ユイレ最後の作品になった『あの彼らの出会い』(2006)が、ドイツの公共放送3SATで放映される際、放映時間を通常の長編の長さにするために、前置きとなるような作品をプロデューサーから依頼されました。そこで私は喜んで引き受けたのです。
私はこの映画の中にストローブ=ユイレの作った非常に美しい作品を盛り込むことにしました。そうすることで自分の作品を高められるのではないかと思ったからです。そしてもうひとつ、その後間もなくして亡くなったダニエル・ユイレの思い出の作品にもしたいと思ったのです。
ストックホルムのシネマテークでのふたりの講演の映像が出てきます。ジャン=マリーがグラスを持ってバンと落とし音と映像の一致の話をするところで、彼の隣に座っているダニエルは胸の辺りを押さえて呼吸するのも大変苦しそうな様子でした。それが映っています。彼女の最後の頃の姿だということです。
ですから映画の最後で、座っているダニエル・ユイレの写真が出てきますが、その前に彼女がジッとヘッドホンで音を聞いてチェックしていて、ストローブが歩み寄ろうとすると、バッと手を挙げて止める、非常に美しい場面がありますが、あの場面は彼らのイタリアでの撮影にずっと参加した若い監督によって撮られた映像です。

最後に上映された短編映画『アーノルト・シェーンベルクの《映画のための伴奏音楽》入門』については、ジャン=マリーとダニエルのふたりが私にブレヒトのテクストを読んで欲しいと言ってきました。そのテクストというのは、私が見つけてふたりに送ったテクストで、ブレヒトがたしか1936年かその頃にパリでの反ファシズムの作家会議の場で講演した内容です。その内容が私に決定的な影響を与えたので、私はジャン=マリーたちにそれを送りました。ちょうどその頃彼らはこの映画の準備をしており、私にこのテクストをぜひ朗読してほしいとスタジオに呼ばれたということです。
そしてギュンター・ペーター・シュトラシェクがーー前半の朗読をした人物ですーーシェーンベルクによるカンディンスキーに向けての手紙を見つけて、ふたりに送りました。ということで、この手紙は彼が朗読しました。この文章はケルンの博物館で彼の映画作品とドイツの亡命者についての研究をまとめた展示(2018年)のカタログの中にも収録されています。そこで彼はどのように映画を撮るようになったかということも話しています。
この作品の音楽が持つ表現力は、その導入になるテクストと結びつけられることによってさらに高められます。ここでは音楽が映画を彩るものとしてあるのではなく、この映画において音楽が観客との対峙を迫る主要な要素となっていることが重要です。

ストローブ=ユイレにとって音楽を用いることはそれを重要な要素にすることでした。それは単にソファに座って聞き流すような音楽ではなく、まさに観客が音楽と向かい合って、頭を使って対決しなければならないものです。
私の映画『ミュールハイム(ルール)』の音楽はディーター・ジーバークリュップという人物によって作られました。彼は映像を編集台でみて、彼のスタジオでそれぞれの場面に曲を作りました。彼の楽曲です。その音楽を映像に合わせると、部分的に音楽と映像の中の動作がシンクロするところがあり、ぴったり合う場面が時々出ていますが、全体としては映像と音楽は独自の要素であり並行して流れるものです。

ストローブ=ユイレの映画は当時ものすごく攻撃されました。とりわけ大手の新聞によってです。当時ドイツでは「フィルムクリティック」という若い批評家たちの映画雑誌が彼らを支えただけです。そしてもちろんフランスの仲間たち、ゴダール、レネ、カイエの批評家のミシェル・ドラエといった人たちによって称賛されてきました。そしてアメリカでも非常に受け入れられたんですけれども、ドイツでは、彼らの映画が受け入れられるまでに非常に長い時間がかかっています。彼らの映画が正当に評価され始めたのはずっと後になってからです。

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質問1 『ミュールハイム(ルール)』についてストローブが「ミゾグチに似ている」と言ったと仰っていましたが、ご自分ではどのように思いますか?

ペーター・ネストラー もちろん、私は溝口の映画をみて、大変素晴らしい監督だと評価していますが、自分の映画とは異なるものです。簡単に比較はできないなと思っています。
私は何かテーマとなる対象を見つけたら、それに関わり、大事に育てるだけでなく、いかにして最短距離でそれを表現できるかということを考えます。つまり美化したり装飾を加えて人々を魅惑するのではなく、まさに私が発見したままを見せることでした。
もちろんその際には私個人の強大な力の関与があります。つまり私のフレームで画面を切り取るということです。

1960年代当時私たちがどれだけ困難な状況にあったかをお話ししたいと思います。ジャン=マリー・ストローブはミュンヘンのスタジオを借りて、私が彼に見せた最初の3本の映画を他の人たちにも見せようとしてくれました。その時フランスからミシェル・ドラエもミュンヘンに来てくれました。『ミュールハイム(ルール)』を上映しているとき、ある場面で1940年代に書かれた「共産党に入ろう」という壁の文字が映し出されました。その時、立ち上がった人物がいました。彼は配給会社の人間で、当時慣例だった長編映画の前に上映する短編作品を物色しに来ていたのですが、「なんだ、そういう映画だったのか」と叫んで扉をバタンと閉めて出ていきました。その後人々の静まり返った中で映写は続きました。そうして杖を持った老人が霧の公園を歩いている場面になったとき、ミシェル・ドラエが「ブラボー!」と叫んだのです。これは明らかに、先ほどの男の態度がいかにバカげているかを伝えるためのアクションでした。

質問2 『ミュールハイム(ルール)』の音について質問です。なぜ撮影現場の音を使わなかったのですか? つまり当時の技術的な問題なのか、それとも意図的な判断なのでしょうか。

ペーター・ネストラー 撮影現場で録音もしました。当時、私はボレックスカメラで撮影していました。私はいわゆる環境音を、人の言葉や音楽と重ね合わせるというやり方をしたくなかったのです。さもないと、いま映画の中で聴けるように、観客が音楽と直接向き合うという効果がなくなってしまうからです。
私は1961年に映画を撮り始め、この映画は1964年の作品ですが、この時は15分の映画を撮るために3ヶ月間現地をじっくりとリサーチをしました。これこそまさに贅沢だとジャン=マリーやダニエルとも話しました。私にとって、昔のサイレント映画が保持しており、その後失われてしまった映画の価値が大切でした。例えば、ヨリス・イヴェンスの『雨』(1929)が持っていたようなものです。そうした映画が持っていたものを取り戻そうとこの映画では試みました。その前に私がつくった映画は『作文』(1963)という作品で、子供たちが学校で自分の書いた作文を朗読します。そこでは作文を読む子供たちの映像と作文の内容が、並行しつつ関係しあっています。

質問2続き 私としては当時の音を聴けたら、いまのミュールハイムと当時のミュールハイムの音はぜんぜん違うと思うので、面白かったろうと思ったのです。

ペーター・ネストラー ストローブ=ユイレの2本めの映画『妥協せざる人びと』(1964)は、ハインリヒ・ベルの「九時半の玉突き」という小説の映画化ですが、この作品は当時の首都だったボンで多くの路上撮影をしています。その中の路面電車が通る場面での録音にトラブルがありました。当時彼らは大変倹約して撮影せねればならなかった。だからホテルで電話ができず、表の公衆電話を使っていたくらいでした。そんな彼らがもう一度ボンまで旅して、その撮影場所の路面電車の音を録ったんですね。要するに、それぐらい場の映像と音に忠実に撮ることが彼らにとって非常に重要だったのです。
もうひとつの例として、私が彼らの作業を見て気づいたことは、彼らは作品を編集する際に、映像の正しいつなぎ目を見るために、フィルムを前に送ったり巻き戻したりしますが、決してハイスピードでやらなかった。必ず通常のスピードである1秒24コマのテンポで進め戻していたことです。それから音を編集するとき、普通はマグネットのサウンドトラックを斜めに切ります。要するに素材のいたみを出来るだけ減らすためですが、そうすると切れたコマの音が一コマ分微妙にフェードアウトしてしまいます。彼らは必ず垂直に切りました。音についてもそれくらい徹底して作業していました。
つまり彼らは自分たちの撮影した場面、風景、人びとというものに、大変な敬意をもって接したということです。だから映像を流し見るということは絶対に避けようとしました。

質問2続き これはデジタルの時代になって変わったことだと思います。フィルムだと目の前にマテリアルがあって非常に直接的な関係があるようなものなんですが、デジタルになったら直接手に触れることができません。撮ったときと編集するときで、ものすごく開きが出てしまう。だから、作るときのモラルや心の状態というものが変わってしまうのではないかなと思うのです。

ペーター・ネストラー もちろん、フィルムに光を透過させて記録することが最も理想的です。とはいえ、フィルムという素材はいつか損なわれます。例えばプリントは時間が経てば元の色彩が失われ、変色して赤くなってしまいます。ですからそれをデジタル化して残していくことは、やはり必要なことです。ただしその時に、できる限り余計なことをしない。もとの光を残すためのデジタル化を行うことが重要でしょう。もとのフィルムの見え方に近づけるように努めなければならないし、そのためには作者の関与が重要です。映画監督が生きているなら、絶えずデジタル化の作業に立ち会い目を光らせなくてはなりません。

質問3 先ほど、ヨリス・イヴェンスの話が出ましたが、やはりずっとドキュメンタリーを撮り続けていらっしゃって、ヨリス・イヴェンスからの影響というのはあるのでしょうか

ペーター・ネストラー ヨリス・イヴェンスの影響でドキュメンタリーを撮り続けているということはありません。私にとっては、事物を定着させ、他の人たちに伝えたい、ただそういう思いで映画を作っています。
私は何か新しい物を作り出したいというよりも、そこにあるものの真実の姿を掴みとって他の人に伝えたいということだけです。
普段、人びとがちゃんと注目していないが実は大切なもの、そういうものを取り上げたいと思っています。


『ミュールハイム(ルール)』Mülheim/Ruhr
1964年/14分
監督・脚本・撮影・編集:ペーター・ネストラー
脚本協力:ライナルト・シュネル

メトロノームとギターの響きに彩られたある都市の肖像映画。炭鉱で栄えた街ミュールハイムは次第に自動車産業労働者のベッドタウンへと変貌してゆく。カメラは街中をめぐり、目立った場所、酒場の賑わい、生活者の姿を収めてゆく。

『時の擁護』Verteidigung der Zeit
2007年/27分
脚本・監督:ペーター・ネストラー
撮影:アーカイヴ映像、ライナー・コマース

ネストラーと親交のあった映画作家夫婦ジャン=マリ―・ストローブとダニエル・ユイレのユニークな作家性に迫ったドキュメンタリー。2004年ストックホルムでの登壇中の発言や、彼らの映画の抜粋と撮影風景、ペドロ・コスタの記録映画、様々な写真や絵画を組み合わせた芸術家とその芸術の考察を展開する。2006年に亡くなったユイレ最後の撮影現場の姿も見られる。

『アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門』Einleitung zu Arnold Schönberg "Begleitmusik zu einer Lichtspielszene"
1972年/15分
監督・脚本:ジャン=マリー・ストローブ 
編集:ダニエル・ユイレ、ジャンマリー・ストローブ 
出演:ペーター・ネストラー

シェーンベルクの作曲した映画音楽を完成させる試み。ただし既存の音楽映画とは異なり、ユダヤ人としてのアイデンティティを語る自伝の朗読の中で演奏が始まり、ブレヒトによる反ファシズムのテクスト朗読、パリ・コミューンの死者の写真、ベトナム戦争の空爆映像などとコラージュされてゆく。

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協力:渋谷哲也、出町座、ヴュッター公園、同志社大学今出川校地学生支援課

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