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May 5, 2019

『ドント・ウォーリー』ガス・ヴァン・サント
結城秀勇

[ cinema ]

 アメリカ映画で「禁酒会」の描写としてよく見かけるAA(アルコホーリクス・アノニマス)という団体には、「12のステップ」という方法論があるということが本作でも触れられている。己の無力さを認める、という段階からはじまる12のそれは、ステップという言葉通り、順を追ってひとつづつ到達しなければならない状態である。ひとつひとつの段階の難易度の上昇度は一定ではない(というか、それとそれ、ほとんど一緒じゃん、というステップもある)ものの、これの次にはこれ、という順序を守って進むことにこそ、効用はともあれ、このステップのステップたる重要性があるはずである。
 しかしながら、諷刺画家ジョン・キャラハンの自伝をベースにした本作は、ホアキン・フェニックスが演じる彼を讃えるなにかの表彰式(?)、ドニー(ジョナ・ヒル)の家で開かれる禁酒会、壇上でジョンが話しているまた別の禁酒会など、同じ話を別の場所別の時間で語るジョンの姿を矢継ぎ早に切り替えてつないでいくものだから、スケボー少年たちとジョンとの微笑ましい交流の場面に至るにあたって、誰もが「え、これいつの話なんだ」となること間違いなしだ。もちろんジョンが車椅子生活になる前の描写が、車椅子シーンよりも過去の話であることはわかるのだが(しかし事故当時ジョンが史実通りに21歳であるようにはまったく見えないからなおさら)、いったいそこからどれだけの段階を踏んで禁酒に至ったのか、合間に差し挟まれる飲酒シーンが禁酒を志す前なのか後なのかがまったくわからないのだ(ジョンの髪型の変化なんかで、どの時代かなんてわかるわけないだろ!)。
 というようなことを書くとこの作品をひどくこき下ろししているようだが、そこまで絶賛はできないにしろ(ガス・ヴァン・サントの最高傑作だなんてとても言えない)、なんとかこの作品のいいところを書こうと思ってのことなのだ。でもこの作品の一番いいところを言うなら簡単に言えて、ホアキンの周りを、ルーニー・マーラ、ジョナ・ヒル、ジャック・ブラックが取り囲む(そして無駄にウド・キアーもキム・ゴードンも!)キャスティングこそがそれなはずなのだ。しかし前述のジョン・キャラハンが歩んだステップの前後の見えなさのせいで、おそらく生涯の長い期間にわたってジョンを支え続けたのであろう恋人アヌー(ルーニー・マーラ)でさえもが、彼の人生のほんの束の間を通り過ぎた幻影に過ぎないようにさえ見えてしまうのである。それはよい映画であるためにはネガティヴな要素でしかないはずなのだが、しかしそここそが本作でもっともなにか残る部分でもある。
 初めてジョンがアヌーと出会うときの、なにをしに来たのかもまったくわからなければ、本当に実在しているのかすらも判然としない、あのアヌーの描写。乾いた笑いを無理矢理押しこらえていて、それが時折噴出するといったドニーの表情。そして言わずもがななジャック・ブラック芸であるデクスターとの再会。それらはホアキンを筆頭とする味のあるスターたちの顔芸だと言ってしまえばそれだけだが、ひとりの人物の人生を描こうとするときに、彼の人生を通り過ぎた人々の一瞬の表情でしか表現しえないというのはなんだか複雑な気持ちになる。もし自分の人生が何人かの誰かの一瞬の表情でしかないのだとしたら、少し寂しいことのような気もするし、なんだか嬉しいような、好ましいことのような気もする。
 例の表彰式(?)でスピーチをするジョンの背後には、彼が描いた、ゾウリムシから人間へと進化して、トロフィーをもらうひとりの人物が映し出されている。だが、映画の途中で、ジョンはゾウリムシと人間の間に、どんな進化のステップがあるべきなのかをひどく悩んでいた。恐竜なのか、ネズミか、鳥か魚か。スピーチする彼の背後にある恐竜バージョンは、彼の熟慮のすえの決定版であるというよりも、彼が悩んでは捨てたさまざまなバージョンの重ね合わせであるように、この映画の最後には思える。ジョン・キャラハンはたしかにいくつかのステップを積み重ねてそこに至ったのだろうが、しかしそのステップの登り方は一通りではなく、いくつもの別のステップが順不同に存在した。時の前後もないままに、彼の人生には忘れられない人々の表情が積み重なっていった。
 そのことと、ガス・ヴァン・サントがホアキン・フェニックスについて、ジョン・キャラハンの喋り方を真似したら結果的にケイシー・アフレックに似てた、と話してるのはちょっと関係がある、たぶん。


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