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May 21, 2019

第72回カンヌ国際映画祭レポート(3) 『Liberté』アルベール・セラ
槻舘南菜子

[ cinema ]

アルベール・セラ『Liberté』スチール.jpeg
『Liberté』アルベール・セラ


 今年の「ある視点」部門でのセレクションを見わたしてみると、昨年から引き続き、新人監督の処女作、もしくは第2作目が全体のほぼ半数を占めており、併行部門となる「批評家週間」と同様に若手発掘が主たる目的となるような趣である。しかしながら一方で同部門では、観客を挑発し映画の枠組みを揺るがすような先鋭的、実験的な作品は忌避される傾向にもある。そんななか、本年のセレクションでもっとも過激で注目すべき作品が、アルベール・セラ『Liberté』だろう。
『Liberté』はそもそも舞台として企画された作品だ。伝説的な俳優であるイングリット・カーフェンとヘルムード・バーガーらとともに、公募キャスティングされた舞台俳優を起用した舞台版が、2018年春にベルリンのフォルクスビューネ劇場にて、まず上演される。それを受けて、マドリードのソフィア王妃芸術センターの依頼で、本作のインスタレーション版の制作が行われる。そこでの映像化に際するキャスティングの一部は、『Roi Soleil』(本作はポルトガルでの『ルイ14世の死』の公開を記念し、リズボンのギャラリーで制作されたインスタレーションを撮影した記録素材からなる中編)を出品したマルセイユ国際映画祭FID(ちなみに本作は同映画祭の2018年度インターナショナル・コンペで大賞を受賞)の会期中に行われた。その結果、舞台版に出演したヘルムード・バーガーやセラ作品の常連スタッフとともに、数人の若い俳優がオーディションを介して参加することになり、新たにシーンを付け加えられ再編集されたのが映画版『Liberté』だ。そもそもインスタレーション作品として企画されながら映画化が先行し、そののちにインスタレーションが制作された『ルイ14世の死』とは、つまり結果として逆の道筋を辿ったことになる。同じ主題において異なる形態で作品を制作するサイクルが、セラにとっての映画作家としてのスタイルとなりつつある。
 セラはこれまでドン・キホーテとサンチョ・パンサ(『騎士の名誉』)、東方の三賢人(『鳥の歌』)、カサノヴァ(『私の死の物語』)、ルイ14世(『ルイ14世の死』)など、映画誕生以前の"映像としては存在しない"物語の登場人物や偉人、あるいは歴史上の重要人物ばかりを描いてきたが、それは物語における人物像の補填だとか、歴史上の人物の空白を埋めるためのことではない。彼らが存在した・しているという事態を、セラ自身の視点を介して、われわれに見せることこそが彼の映画には重要なのだ。
『Liberté』では、セラの愛してやまない18世紀フランス、革命に向かう前の矛盾した時代を背景に、自由主義ゆえに宮廷を追われた貴族たちが描かれる。そこで私たちが目にするのは、鬱蒼とした森の暗闇の中、究極の自由を追求しSM、放尿、緊縛などの性行為に耽る退廃貴族たちの姿だ。そこにはつねに第三者の視点が介在し、誰かが誰かを見つめているという構造が見えてくる。我々はいつしか、森の暗闇の中で息を潜めて、性行為に耽る人々を静かに見つめるルイ・セラと同じ場所に立っていることに気づくだろう。声を上げてはいけない。触れてはいけない。目の前で起こっている行為をただじっと見つめ、耳をすませなければならない。映画館の暗闇と森の暗闇は完全に同化し、私たちはひたすら「見る」という行為に魅入られていく。
 アルベール・セラの過激さは、映される対象の性的描写ゆえのものではない。これほどにポルノが蔓延する現代において、『Liberté』で描かれる性描写の数々はすでに十分に我々が知るところのものに過ぎない。本作においてマルキ・ド・サドが参照されていることは明瞭だ。身体はたびたび、様々な遮蔽物やフレーミングによって分断されることであくまでも部分として提示され、たとえその全体が写り込んでいたとしても、深い暗闇はその像をはっきりと見せることはない。セラによって映画として創造された世界に、その空間に、その場所に、「見る」主体であるわれわれがつねにすでに存在させられてしまう。そうした試みにおいてセラは、「映画」というメディア自体を揺るがし、「映画とは何か」という問いをわれわれに突きつける。つねに見る者を揺さぶり、戸惑わせてきたアルベール・セラの恐るべき傑作がまたひとつ誕生した。

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第72回カンヌ国際映画祭