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May 22, 2019

第72回カンヌ国際映画祭レポート(4) あるものはあるーー『Fire will come』オリヴィエ・ラックス(「ある視点」部門)
槻舘南菜子

[ cinema ]

 映画祭という場では、映画の有する社会的な役割があたかも「同時代の特徴を映す」ことだけ、あるいは「社会の陰部を告発する」ことだけであるかのような作品が溢れてかえっており、そのことはこのカンヌも例外を免れてはいない。しかしそのような傾向において、先立って紹介した『Liberté』(アルベルト・セラ)と並び、『Fire will come』(オリヴィエ・ラックス)はそれに真っ向から抵抗した作品のひとつであると言える。

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オリヴィエ・ラックス監督『Fire will come』

 オリヴィエ・ラックスは、パリに生まれ、バルセロナ大学で映画を学んだ後、2006年にモロッコに定住し、これまでに2本の長編を制作している。初監督作となるドキュメンタリー『Todos vós sodes capitáns』ではカンヌ映画祭の「監督週間」部門にて批評家連盟賞を受賞、パゾリーニを想起させる流浪の民の彷徨う姿をとらえた長編2作目『Mimosa』は同映画祭の「批評家週間」部門でグランプリを獲得。俳優としても活動し、ロカルノ国際映画祭のコンペで上映されたベン・リヴァース監督の『 The sky trembles and the earth is afraid and the two eyes are not brothers』では主演を務め、大きな存在感を示した。監督第3作となる『Fire will come』の舞台は、彼の両親の故郷であるガリシア地方。職業俳優を用いるのではなく、撮影場所で出会った魅力的な人々や友人たちをキャスティングするスタイルは今回も同様だ。私たちは、『Fire will come』というタイトルから、この作品が迎える結末を容易に想像できる。そう、どのようにこの地に「火」はやってくるのか?
 このフィルムはトラクターの轟音とともに伐採される木々を映し出すシークエンスからはじまる。が、その次の瞬間、木々の年輪を無機質に捉えたクロースアップが唐突に挿入される。本作全編にわたる物質性への執着を象徴する、重要なショットだ。
物語は、ほとんど時代というものを感じさせない山々に囲まれた村を舞台に、山火事の放火犯として服役していた息子アマドールと、出所した彼を迎える老いた母親ベネディクタを中心に展開する。森林の伐採シーンに続く警察署でのワンシーン、そこではアマドールが放火の罪で拘束されていたことをさり気なく示されるものの、彼についてそれ以上の説明はなく、彼の罪がこの映画において問い返されることはない。そして母親もまた、息子の帰還に大きな感情の高ぶりを見せることはない。ふたりの間に時間の空白は見えない。母は静かに、それがいつものことであるかのように朝食を作りはじめ、息子はそれを見つめるばかり。

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 カメラは、母親の顔に刻まれた皺、一歩一歩地面を踏みしめる彼女の足跡の重み、日常生活、彼女が世話をする動物たちとの戯れをほとんど言葉なく捉えていく。息子であるアマドールは牛を追い、草の上で寝転がり、手を洗い、バーで静かにグラスを傾ける。母と息子の間に交わされるたわいのない会話は、ほとんど呟くような小さな声で、物語を発展させるには至らない。時折現れる村人たちもまた、彼らに忍び寄る大惨事からはほど遠い日常を生きている。予兆はどこにも見えず、否応なしにやってくる「火」に抗うことは誰にもできない。
 私たちは、突如として燃えはじめる山々を襲う炎を目の前にして、そこで「なぜ」と問いかける必然性を感じない。行為が積み重ねた時間は、出来事の起こった要因にはいっさい帰せず、カメラの前にある現実の強さに圧倒され、私たちはただただ身を任せてしまう。安易な共感は一切廃されているにも関わらず、私たちはただただ、カメラの前の出来事を信じることができる。

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 同時代をめぐる表象が皆無なのはもちろん、なんらかの社会性を代替する要素も微塵もない。謎を謎として残したまま、しかし見るものを置き去りにはしない。この作品全体に漂う強烈な物質性は、若き映画作家オリヴィエ・ラックスのこれまでのフィルモグラフィーを更新するものであるとともに、彼の恐るべき才能を一本の作品において見事に結実させている。

第72回カンヌ国際映画祭