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January 1, 2020

『マリッジ・ストーリー』ノア・バームバック
隈元博樹

[ cinema ]

 おたがいの長所を語る一組の夫婦のモノローグと、そのモノローグに呼応するようにして過去を振り返るフラッシュバックが続いたあと、時制は別々のソファに座った夫婦を離婚調停員がなだめている場面へと転換する。妻は夫に視線を合わせることもなく、激昂したのちに席を立ってしまうが、その場面からチャーリー(アダム・ドライバー)とニコール(スカーレット・ヨハンソン)の薬指にはめられた指輪をずっと眺めていた。それはこの映画のタイトルに引っ張られてのことなのか、日頃から他人の手元を見てしまう癖によるものなのかはわからない。ただひとつ言えるのは、金色のマリッジリングが画面上に認められるかぎり、至極当然ながらこの映画の男女とは結婚というある種の通過儀礼を経た一組の夫婦であることが明瞭に示されているということだ。
 しかしニコールの薬指にあった指輪は、千秋楽を迎えた出演舞台の打ち上げから抜け出すように帰宅し、彼女が自宅のベッドの上で泣き崩れるまでは確認できるものの、フェードアウトでつながれたLAの実家のベッドの上からはその所在を確かめることができなくなってしまう。いっぽうチャーリーの指輪は、ニコールの実家を訪れる場面までは薬指に認められるが、自身が主宰するニューヨークの劇団の稽古場に戻って以降、いつの間にか彼の指先から消えていることがわかるだろう。彼らがそれぞれに指輪を外す所作は見受けられないが、こうして指輪を外したという結果やそこに至るまでのタイムラグを通して、夫婦ないしは劇作家とその劇団の看板女優といった関係性の終焉や諦念を、私たちはまざまざと知ることになる。だから一人息子であるヘンリー(アジー・ロバートソン)の親権を巡る過酷な裁判がこのあとに待ち受けていようとも、あらゆる些細な行為が法廷上の立証事項や双方の主張に位置付けられようとも、あるいは感情の抑制も効かぬままに生じるふたりの口論を見守らなければならないとしても、ある日突然彼らの指輪が目の前から消えてしまうことほどに、ふたりが築いてきた関係性の崩壊を如実に物語るためのプロセスはない。そしてその指輪はニコールから外され、続いてチャーリーの指元を離れてしまうことからも、チャーリーはニコールとの結婚生活をやり直すべく一抹の期待を抱いていたのではないだろうか。もちろんマリッジリングとは、永遠の愛を誓った夫婦であることを、見えざる神や周囲の他者へと知らせるための形式上の目印にすぎないし、言わば手元を彩るための単なるアクセサリとも言えなくはない。しかし『マリッジ・ストーリー』に映る指輪は、これまでにノア・バームバック自身が男女の別離を誘発するために映画の中で描き続けてきたプロットや、無為にも似た会話劇の引き延ばし以上に、婚姻関係にあった男女が決定的に破綻を迎えてしまったことの説得力を十全に帯びている。
 ただ『マリッジ・ストーリー』には、指輪のように姿を消してしまうものもあれば、ふたたび目の前に現れるものもある。それは冒頭の離婚調停員を前にした場面、おたがいの声によって読まれることのなかった長い箇条書きのメモだ。私たちは映画の中のモノローグとしてその内容を知り得ているものの、離婚が成立したあとにヘンリーがニコールの実家で見つけたメモは、ヘンリーから彼の傍らにいたチャーリーの声によって初めて代読され、その光景を背後で見つめるニコールの耳へと届く。しかし後には引き返すことの不可能な状況の中で読まれるチャーリーの長所は、たとえそこに書かれたことが過去の揺るがない事実だとしても、彼とニコールの夫婦関係をもはや修復するための手立てにはならない。つまり外した指輪とは別に、現前するメモに書かれた言葉の存在を通して、彼らは過去に戻れないことを悟った上で、それぞれが選択した別離を泪ながらに受け入れざるを得ないということなのだ。
 だからこそニューヨークの劇団員たちの元へと戻ったチャーリーが行きつけの酒場で『Company』の「being alive」を歌う光景は、結果的にニコールとの結婚生活に終止符が打たれたとしても、また裁判に負けたことでヘンリーと過ごすための時間が少なくなったとしても、自身が置かれた状況をそのままに受け入れたことの証左に他ならない。自身が「生きている=being alive」という今を、ただ受け入れるということ。つまり目の前から消え失せてしまった指輪も、手元に残ってしまった手書きのメモも、他者との関係性を修復するための術を失ってしまったならば、この映画を生きているという現実を受け入れなければならない。だからきっと指輪もメモも、チャーリーやニコールと同じこの映画の中の生き物であり、彼らへ向けて「being alive」と連呼し続けている存在なのだろう。

Netflixにて配信中。またアップリンク渋谷ほかにて公開中

  • 『マリッジ・ストーリー』ノア・バームバック 結城秀勇